論理哲学論考を読んで①(8958文字)【ウィトゲンシュタイン】【論理哲学論考】
今回は番外編です。
かつてどこかの記事で書いたと思いますが、ここでもう一度、僕がこのブログ「エロゲ備忘録~徒然なるままに~」を立ち上げた目的を述べたいと思います。
それは、ケロQ・枕の名作「素晴らしき日々~不連続存在~(以下すばひび)」「サクラノ詩‐櫻の森の上を舞う‐(以下サクラノ詩)」について書くことです。
この1年間京大目指して浪人してきましたが、僕が送った浪人生活はただひたすら勉強するといった類のものではありませんでした。
浪人してからというもの、日々決まった生活を送り続ける高校時代の退屈なサイクルから解放されたわけです。
それはいわば社会的モラトリアムの期間です。
僕はそのモラトリアム期間において、人生観を変える作品たちに出会いました。
それが「すばひび」と「サクラノ詩」でした。
この2作は、シナリオを楽しむだけでなく、込められたテーマを読み解くことが醍醐味である「考察ゲー」とも呼べるジャンルに分類されるでしょう。
僕は、大好きなこの2作についての自分の考察をいつか書きまとめたいと思いました。
それをブログという形で残そうとしてこのブログを立ち上げたのです。
ですが、いきなり考察を書いたところでそれは自己満足にしかすぎません。
ですので、この2作を理解する上での前提知識となる前期ウィトゲンシュタイン哲学のことも同時に書こうと思いました。
↓ウィトゲンシュタイン(1889~1951)
以下、ウィトゲンシュタインのことを「彼」と表記します。
前期の彼の哲学は『論理哲学論考(以下論考)』に集約されます。
他の多くの哲学書に比べ、『論考』は箇条書きのような形式を取っているため短く感じられます。
しかし、文章が短い分、読み解くのはいっそう大変です。
ですので、これから数回にわたり、僕なりの彼の思想に対する理解を書き連ねていこうと思います(どれほどの時間がかかるかはわかりませんが)。
一介の学生が1年弱程度かじった程度の理解ですので、拙いことこの上ないでしょうが、ご了承ください
以下は、注意点です。
1.日本語訳は、『論理哲学論考(光文社 丘沢静也訳)』『論理哲学論考(岩波文庫 野矢茂樹訳)』のいずれかに従う(僕個人が分かりやすいと判断した方を採用する)。
2. 『論理哲学論考を読む(ちくま学芸文庫 野矢茂樹著)』『ウィトゲンシュタイン入門(ちくま新書 永井均)』の2書を参考文献とした。
3.便宜上、『論理哲学論考を読む』にて用いられた具体例を挙げることがある。
4.便宜上、『論理哲学論考を読む』にて用いられた文章構成の順番で説明するものとする。
5.原則、「一」から「七」にわたるまでの彼の思想を「一」から順番に説明するものとする。
6.本記事だけでなく、これから数回にわたり説明するものとする。
では、これらを踏まえてお付き合いください。
1.『論考』とはどういう哲学書なのか
『論考』の序文にはこう書いてあります。
この本を理解してくれる人は、ここで表現されている思想を――または似たような思想を――すでに自分で考えたことがある人だけかもしれません。――つまりこの本は、教科書ではありません。――この本を読んで理解して、面白いと思ってくれる人がひとりでもいれば、この本の目的は達成されたことになるでしょう。
(中略)
つまり私は、哲学の問題を本質的な点において最終的に解決したと考えています。そしてこの点で私が勘違いしていなければ、この本の仕事の価値の、もう一つの意味は、哲学の問題が解決されたとしても、ほとんどなにもなされたことにはならない、ということを示している点にあります。(序文より引用)
まず、『論考』はすべての人に向けて書かれたわけではありません。
彼と同じ思想を考えたことがある人だけが理解できるのです。
とはいえ、初学者でももちろん理解は可能でしょう。
あくまで、理解が容易か否かということが変動するにすぎません。
注目すべきは最後の言葉「哲学の問題を本質的な点において最終的に解決した」と「哲学の問題が解決されたとしても、ほとんどなにもなされたことにはならない」というところです。
哲学の問題をすべて解決したと自らの偉業を語りつつ、それにはほとんど意味がないと語る…
これは彼なりの謙遜というわけではありません。
では、なぜほとんど意味がないのか。
それは、彼の業績は哲学の問題の「解決」ではなく、正確には「解消、消滅」だからです。
彼は『論考』で「思考の限界」を画定しました。
そして、従来の哲学の問題は「思考の外側」に存在することを示すことで、それらの問題を「消滅」させたのです。
つまり『論考』とは、「思考の限界」を画定することで従来の哲学問題にケリをつけることを目的にしているといえます。
2.「思考の限界」を「思考」することはできるのか
「思考の限界」を画定することで従来の哲学問題が思考の外側にあることを示す…
ここまではいいでしょう。
ですが、そもそも「思考の限界」をどのように画定するのでしょうか。
「思考の限界」を「思考」することなどできるのでしょうか。
結論からいうと、できません。
その理由は、「思考の限界」を「思考可能と思考不可能の境界線」と捉え直せば見えてきます。
ここで『論理哲学論考を読む』にあった具体例をあげましょう。
例えば、A国とB国の境界線を画定するとき、我々はA国とB国の両方を思考できなければなりません(当然ですが)。
しかし、「思考の限界」を引くときには、「思考可能」な側は思考できたとしても、「思考不可能」な側は思考できません。
よって両者の境界を画定することは不可能といえます。
3.「思考の限界」を画定するにはどうしたらいいか
「思考不可能」な命題の例としては「丸い三角形」「黄色い赤」といったものが挙げられます。
彼はこうした「思考不可能」な命題は「ナンセンス(無意味)」であるとしました。
ところで、「丸い三角形を書け」と言われた時、我々はそんなの存在するはずがないとすぐにわかりますが、それはどのような過程を経た結論なのでしょうか。
ある命題が「ナンセンス」であると主張するには、その命題の何が「ナンセンス」であるのかを示す必要があります。
ですが、「何が」という問いに対して我々は「思考」によってでは答えることはできません。
なぜなら、「丸い三角形」の場合は、「思考できない」と判断した対象が何なのか答えられないからです。
そもそも「丸い三角形」などは思い描くことすらできないのですから。
したがって、「思考の限界」を画定するには、少なくとも「思考」を媒介にしていては不可能であるとわかります。
では、どうすれば画定することができるのか。
それは「言語」によってです。
先ほどの例をもう一度使うと、「思考」を媒介としていては、「丸い三角形」は思い描くことすらできないので「何が」ナンセンスなのかというナンセンスな対象を答えることができません。
一方で別の具体例を考えてみましょう(この具体例も『論理哲学論考を読む』で用いられていたものです)。
「あのほらけ」という単語があったとします。
こんな単語存在しませんので、もちろんこれもナンセンスです。
ですが、この場合は「何が」ナンセンスなのか答えることができます。
それは「あのほらけ」という「文字列」です。
このように、「文字列」、いわば「言語」を媒介とすれば「何が」ナンセンスなのかということも答えることができます。
つまり、2で述べたように、思考の限界を思考によって画定することはできませんが、言語の有意味性ならば画定可能であるということです。
4.「思考の限界」と「言語の限界」は一致するのか
3で述べたように、「言語の限界」ならば画定できるとわかりました。
ですが、画定したいのは「思考の限界」です。
いくら、「言語の限界」を画定できたとしても、それが「思考の限界」と一致しなければ、本来の目的には適っていません。
結論から言うと、彼は一致すると結論付けているのですが、それがどういう理屈なのかということは『論考』の後半部分になりますので、ひとまず保留しておきましょう。
ここでは、彼が正しいと仮定して、すなわち「思考の限界」と「言語の限界」が一致すると仮定して論を進めていきます。
5.「言語の限界」に対する彼の答えとは何か
4で述べたように、両者が一致すると仮定すれば、「言語の限界」を画定することがひとまずの目標となります。
では、彼は「言語の限界」をどのように画定したのでしょうか。
その過程は同じく『論考』の後半ですので、ひとまず置いておきましょうか。
彼は「言語の限界」とは何かという問いに対して、明確に答えを書いています。
本書が全体として持つ意義は、おおむね次のように要約されよう。およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。(序文より引用)
七 語りえぬものについては沈黙せねばならない。
ここでいう「沈黙」とは、沈黙の末にそれを無条件に受け入れるということを指します。
その無条件に受け入れるものとは、例えば「論理」です。
「論理」は言語の有意味性を画定する際の基盤となりますが、「論理」それ自体については語ることができません。
(数学においては0で割ってはいけないという決まりがありますが、それについて異議を唱えていてはあらゆる数学の概念が崩れ去るのと同様ですね。)
ゆえに「論理」は「語りえぬもの」です。
他にも、「倫理」なども「語りえぬもの」です。
善や悪や幸福といった話題は、語りえぬ沈黙の内に位置づけられることで、語りうるものよりもいっそう重要視されることになります。
(彼のその姿勢はあたかも、「語る」ことによってそれらを卑しめてしまわないようにしているようにも見える、と『論理哲学論考を読む』の著者である野矢茂樹氏は語っています。)
彼は、こうした「語ることはできないが我々の前に示されるもの」について、なぜそれらが「語りえぬ」のか、なぜ「示されうる」のかということを明らかにしようとしました。
これらの彼の目的意識を踏まえて、『論考』を読んでいきましょう。
6.「世界」と「論理空間」
一 世界は成立していることがらの総体である。
「成立していることがら」とは、実際に成立している「事実」を指します。
例えば、「ウィトゲンシュタインはウィーン生まれである。」といった命題がそれにあたります。
一方で、「ウィトゲンシュタインは結婚経験がある。」といった命題は種を異にします。
こうした命題は、成立する可能性はあったが、実際には成立しなかった命題です。
したがって、こうした命題は、彼のいう「世界」を構成してはいません。
よって、彼が『論考』で述べる「世界」とは、思考できる限りの世界ではなく、実際に成立したもののみが存在しうる「現実世界」と言い換えるべきでしょう。
一方の、思考できる限りの世界を、彼は「論理空間」と呼んで区別しました。
「論理空間」とは言い換えるならば、「成立しうることがらの総体」であり、もっと言えば、「思考の可能性の総体」です。
「論理空間」について掘り下げるのは後にしますが、「論理空間」を定義することで次のことが導かれます。
それは、「思考の限界」を紐解くには「論理空間」の在り方を明らかにすればいいということです。
なぜなら、上記の通り、「論理空間」とは「思考の可能性の総体」です。
したがって、どこまで思考できるかということは、どこまで可能性が存在するかということに等しいので、「思考の限界」は「論理空間の限界」に等しいのです。
一・一三 論理空間のなかにある事実が、世界である。
7.現実性から可能性への移行
6で述べた通り、「論理空間」の在り方を考えればいいというひとまずの目標ができました。
とはいえ、我々は「現実世界」に生きています。
そのため、可能性としての世界たる「論理空間」を知るにしても、「現実世界」の立場から思考しなければなりません。
つまり、「現実性」から「可能性」の世界へと移行する必要があるのです。
そこで頭に入れておかねばならないことは、「我々人間は、可能性を了解している」ということです。
例えば、ミミズや猫はおそらく可能性を了解してはいません。
一方、我々人間は、自分が生きているこの「現実世界」以外の世界、すなわち「論理空間」について思考を巡らせることができますので、可能性の了解を持っているといえます。
8.「事実」と「事物」
一・一 世界は事実の総体であり、事物の総体ではない。
この言葉こそ、まさしく、「現実世界」から「論理空間」へと踏み出す彼の意志の表れと言えるでしょう。
では、どういうことなのか。
例えば、確かに「現実世界」には「コップ」や「机」といった「事物」があふれています。
しかし、「事物」だけの世界には、例えば、「丸い」や「寝ている」といった「性質」を示すものがありません。
これでは、例えば、「丸い机」などの「事物」と「状態」を兼ね備えたものを言い表すことができません。
ゆえに、世界は、少なくとも(あくまで、少なくともではありますが)「事物」の総体ではありません。
また、「現実世界」には、「事物」と「性質」以外にも存在するものがあります。
それは、「関係」です。
例えば、「みかんが机の上にある。」という命題は、「みかん」と「机」という「事物」の間に、「AがBの上にある」という「関係」が介在しています。
では、「事物」と「性質」と「関係」の3つがあれば、世界を言い表すことができるのか。
結論から言いますと、それも違います。
その3つだけではまだ世界を構成するには不十分です。
なぜなら、「事物」を「関係」によって結びつけるにしても、どの「事物」をどの「事物」と結びつけるかということを決める際にも複数のパターンが存在するからです。
したがって、そもそも世界を「事物」や「関係」といった個別の性質に分けようとすることは不毛であるといえます。
「事物」なき「関係」も、「関係」なき「事物」も、ナンセンスなのですから。
ゆえに、我々はいきなり「事実」から世界を考えるしかなくなります。
よって、彼が言うように、世界とは「事実」の総体であり、「事物」の総体ではないのです。
9.世界の構成要素たる「事実」を敢えて解体する意義
8で述べた通り、本来であれば、「事実」を個別の性質へ解体することは不毛です。
しかし、世界を単なる「事実」の総体と考えているだけでは、本来の目的である「可能性としての世界の理解」は一向に進みません。
それは次のような理由です。
例えば、ある本が本棚にあったという「事実」と、いまその本と同じ本が机の上にあるという「事実」の2つの「事実」を考えるとします。
この時、仮に我々が「事実」を解体せずに「事実」のまま捉えてしまっていては、たとえ2つの「事実」の中にある「本」が同じ「本」であるとしても、前者は本棚に入っているものであり、後者は机の上にあるものであると認識し、2つの「本」はそれぞれ別のものだと認識してしまいます。
そうなれば、我々はその2つの「本」を同じものだとして認識できなくなってしまい、可能性としての世界に対する理解はおろか、単純な理解すら進みません。
ゆえに、我々は不毛だと理解しながらも、「事実」をその構成要素にまである程度解体し、それらを新たに再結合してみる必要に迫られるのです。
10.「対象」と「事態」
9で述べた通り、「事実」は解体されねばなりません。
その時、分解された構成要素は「対象」と呼ばれます。
その「対象」こそが、前述の「事物」や「関係」といった個別的なものです。
二・〇一 事態とは諸対象の結合である。
「事態」とは、「可能的な事実」を指します。
つまり、現実に成立しているかどうかはともかくとして、成立しうることすべてを指します。
よって、現実における「事実」は成立している「事態」と一致します。
二 そうであること、つまり事実とは、事態が現実にそうなっていることである。
よって「二・○一」が意味するところは…
現実における事実を諸対象へと解体し、それらを再結合することでできたものが、可能的な事実であるところの「事態」である
ということです。
しかし、ここで問題が生じます。
諸対象をどのように再結合しようとも、そもそも対象はすべて現実のものであるため(事物が現実のものなのだからその構成要素であるところの対象も現実のものであるのは明らかです)、結合して出来上がったものも現実のものでしかありえないのではないかということです。
そうなると、成立する可能性はあるが実際には成立していないところの「事態」を包含できていないことになります。
したがって、彼の「事態とは諸対象の結合である」という言葉は、「事態とは諸対象の可能的な結合である」と言い換えねばならないといえます。
11.「可能的な結合」と「言語」
10で述べた通り、「事態」とは諸対象の「可能的な結合」といえます。
では、「可能的な結合」とは一体何なのでしょうか。
結合されていはいるが、現実には存在していない結合…
それを明らかにするには、「言語」の力を借りるしかありません。
可能性を考えるには、「言語」が必要不可欠です。
具体例を考えましょう。
例えば、引っ越しの際、我々はしばしば家具を実際に配置する前に、頭の中やモデルハウスでシミュレーションを行います。
これと同様に、可能性を考える際にはシミュレーションを行う場所、いわば「箱庭」(しばしば脳内)が必要となります。
彼はこうしたシミュレーションを行う「箱庭」を「像」と呼びました。
12.「言語」によって「像」を用意する
ミミズや猫などとは違い、我々人間は「像」を用意することができます。
それは「言語」によってです。
言い換えるならば、「言語に特定の意味を付加する」ことによってです。
例えば、「猫が寝ている」という文字、すなわち「言語」を書けば、たとえ実際には猫が起きていたとしても「寝ている」という文字そのものが代替となって、「猫が寝ている」という可能的な事実を表現することができます。
こうした、「言語」による「代替物」を利用して諸対象を可能的に再結合することによって、我々人間は実在する「事実」だけでなく、可能的な事実である「事態」をも表現することができるのです。
つまり、しばしば無意識的にではあるが、我々は「言語」を使用して箱庭たる「像」を作り上げることで、「現実世界」だけでなく「論理空間」までをもイメージしています。
13.「世界」と「論理空間」のねじれた関係
二・一四一 像も事実である。
「言語」も同じく世界の中で生じる事実の一つであるので、「言語」によって生まれる「像」もまた「事実」の一つです。
しかし、そう考えると一見奇妙なことが生じます。
前述の通り、「論理空間」は「世界」を包含します。
しかし、「言語」が「事実」の一つであるとすると、「像」も「事実」の一つとなり、「像」によってはじめて思考できるようになる「論理空間」も「事実」の一つとなります。
よって、「世界」は「論理空間」を包含するともいえるのです。
このように、「世界」と「論理空間」は互いに互いを包含している関係にあり、いわば「ねじれた関係」にあります。
14.「思考の限界」と「言語の限界」の一致
三・〇〇一 「ある事態が思考可能である」とは、われわれがその事態の像を作りうるということに他ならない。
前述の通り、「像」とは構成要素たる対象のいわば「代替物」を「言語」によって作り上げて生じます。
したがって「像」と「言語」は同じともいえるでしょう。
ゆえに、「事態」の思考可能性は「像」の思考可能性と一致し、「思考の限界」は「言語の限界」と一致します。
ただし、ここでいう「言語」とは、単なる音声や文字に限らず、何かが別の何かを「意味」している関係にあるものすべてを指すものです。
極端な話、「$=&@」という無意味な記号が何か別の「意味」を持っていたとしたら、それも「言語」と見なします。
このように「言語」を幅広く捉えれば、どれほどのことを考えうるのかという「思考の限界」と、どれほどのことを「語りうる」のかという「言語の限界」とは厳格に一致するのです。
つまり、このように「言語」を介して「像」を作り上げることによって、我々は「現実性」から「可能性」、すなわち「現実世界」から「論理空間」へと思考を飛躍させることができるのです。
以上で今回は終わりにしたいと思います。
これで彼の思想の「一」から「七」の内、およそ「一」と「二」の前半までを説明しえたことになります(あくまで、およそですが…)。
これからも僕の理解がまとまり次第、今回のように書き出していきたいと思います。
それでは、また逢う日まで…
↓次回記事はこちら
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)
- 作者: 野矢茂樹
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2006/04
- メディア: 文庫
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