孤独ノユリカゴ(テーマ的感想・考察)【SILKP.O.D.】【非18禁内容】
今年の夏コミ(C92)が終了してからそろそろ1週間が経とうとしています。
今回紹介するのは、その夏コミで頒布された同人ゲーム「孤独ノユリカゴ」です。
↓体験版部分に関する過去記事はこちら
※サークル名の紹介やあらすじ等は上の2記事を参照してください。
23.孤独ノユリカゴ(以下コドユリ)
過去記事でも散々書いてきましたが、この「コドユリ」は「考察ゲー」です。
ですので、このゲームから僕が理解したところを書いていきたいと思います。
ネタバレ大ありですし、そもそもがつい先日コミケで頒布したばかりの同人ゲーの考察記事ですので、果たしてどれだけの需要があるのかは甚だ疑問ですが…僕は、少なくとも1人、これを読んでくれるであろう人を知っていますので、その人だけにでも読んでいただければという思いで書いていきます…!
今回は「テーマ的感想・考察」をメインにします。
シナリオに関する考察は…実を言いますと…まだ僕の中でも固まっていないんですよね…(コドユリのシナリオは中々に難解でして、もう少し時間をかけて考えたいので、後日書くことにします…)
以上を踏まえて、お付き合いいただければと思いますm(__)m
1.バイロンの英詩
冒頭から唐突に登場する、この英詩。一応、僕はこの英詩を訳しました。…が、その意味はライターさんが意図するところと大きく異なっていたようです。僕はこれを「事実は小説より奇なり」と安易に意訳しましたが、それは全くの誤訳だったようです。(やはりエセ京大文系生だぁ!!)
では、その本当の意味は何なのか。それにはもちろん明確な答えなんてないでしょう。コドユリの本編でもそれが語られることはありませんでした。…ですが、やはりちゃんと自分なりの答えは出したいですよね?僕が出した解釈は以下の通りです。
まず注目すべきは「T is strange, -but true; for truth is always strange」の部分です。これは直訳すると、「これは奇妙だが正しい。というのも、真実は常に奇妙だからだ」となります。この部分だけ取り出して考えると、やはり「事実は小説より奇なり」とはニュアンスが異なるように思えます。
「事実は小説より奇なり」という言葉は、どちらかというと「事実」の立場から論じた言葉になっています。「作り話であるはずの小説より奇妙なことが現実でも起こり得る」という意味でしょうが、これはやはり「事実・現実」の方を説明している言葉です。…ですが、本当の意味するところは、むしろ逆ではないでしょうか?本当の意味はむしろ「小説・虚構」の立場から論じているのではないでしょうか?どういうことかと言いますと、この英詩の本当の意味は、「虚構・フィクションに現実味がなくても、一概にそれを”虚”として切り捨てることはできない」ということだと思います。少なくとも僕は、コドユリを通してそう解釈しました。
コドユリでこの英詩が言及されるのは、澪の手記の部分です。その手記で澪はこのバイロンの英詩について語っています(とはいえ、ただ引用して「事実は小説より奇なり」は誤訳だと言っただけなのですが…)。考えるべきは「どうして澪がこの詩を引用したのか」でしょう。もっと言えば「ライターさんがどうしてこの詩を冒頭と最後に引用したのか」でしょう。その答えは、もちろんプレイヤーそれぞれの解釈でいいんだと思います。…ですが、ここでは僕なりの解釈を書いておきます。
澪は「向こう側の世界」と「こちら側の世界」を行き来しました。そして、「向こう側の世界」で体験したことも、確かに自分の体験であると結論付けます。要するに、「向こう側の世界」の事象に現実味がなくとも、心=意識の決定次第で、”実”になり得るということです。
澪は「向こう側の世界」という非現実的な世界を経験しました。もちろんそれを単なる夢として捨象することもできます。…ですが、それを切り捨てる根拠が一体どこにあるのでしょう?
蛾と電柱が話すシーンでもありましたが、世界に連続性はありません。正確に言えば、連続性があるという根拠がありません。いつ不連続になるか分からないと言うことです。そう考えれば、澪が体験したことがいつ僕たちにも降りかかるか分かりません。世界とは不連続であり、その世界の中に存在する僕たちも、澪と同じような経験をし得るということです。
2.”実”と”虚”を隔てるもの
1で書いたことにも深く関わりますが、”実”と”虚”を隔てるものは何でしょうか?普段、僕たちは夢と現実の区別をつけられているかのように感じています。ですが、それに確かな根拠などありません。目を覚ましていると思っているだけかもしれないし、そもそも最初からずっと起きていないのかもしれません。…ですが、そんなことをずっと考えられている人はいないですよね。そんなことを考えていても、そもそもはじめから答えなど存在しないからです。
ここでカントの例を挙げましょうか。プロイセン生まれの哲学者、イマニュエル・カント(1724~1804)。知らない人はいないと言えるほど、近代を代表する有名な哲学者です。彼の主著に『純粋理性批判』という本がありますよね。…まぁ、とてつもなく長いですし、言っていることもかなり難解なのですが、その中で次のようなことが書かれていると言われています。それは「理性のアンチノミー性」です。「アンチノミー」とは、日本語に訳すと「二律背反」です。つまりカントは、人間の理性には二律背反の性質があると言っているのです。
もう少し分かりやすく言いますと、人間は、矛盾する正反対の命題のどちらも証明できてしまうということです。例えば、「神は存在する」という命題と「神は存在しない」という命題。これは正反対の命題ですよね。ですが、カントからすれば、この命題はどちらも証明することが出来ます(前者であれば有神論者が、後者であれば無神論者がそう信じているように)。なぜなら、どちらの命題も経験を超えているからです。経験を超えている命題について思考しようとしているため、人間の理性(正確には純粋理性)が混乱し、正反対の命題がどちらも証明できてしまうという矛盾が生じているのです。カントはこうした理性の混乱を導く議論を「理性の二律背反(アンチノミー)」と呼び、無駄な議論であると否定しました。
話を戻しますと、”実”と”虚”を区別する議論もこれと同じです。要するに、答えなどないのです。なぜなら、経験を超越しているのですから。…ですが、コドユリから僕が感じ取った答えならば、あります。それは以下の通りです。
”実”と”虚”を隔てるものは、その本人の心=意識のみです。今いる現実の世界と一見すると現実でない世界。その2つの世界の二項対立に、客観的な線を引くことはできません。ですが、主観的な線であれば引くことが出来ます。澪からすれば、「向こう側の世界」も確かに存在した世界なのです。
私が「実」と信じればそれはもう真実。
私の身に起きた出来事は私の口から語られる。
他人からすれば、それはフィクションでしかない。
だが、そこに救いがある。
夢と現実の差を決めるのは私。
私の信ずるところに世界がある。
そう、私こそが世界だ。
澪の言葉を借りれば上記のようになります。これと先ほどのバイロンの英詩の解釈を合わせて考察すれば、コドユリのテーマが見えてくるような気がします。
3.前作「コトノ葉カナタ」とのテーマ的関連
やはり2作目であるならば、1作目との関連も考えたいですよね。去年の冬コミ(C91)で頒布した「コトノ葉カナタ」が1作目ですが、もちろん僕は既にプレイ&考察済みです(`・ω・´)ゞ(言い忘れましたが、僕はこのサークルのライターさんのストーカーを自称しております!w)
↓コトノ葉カナタに関する過去記事はこちら
コトノ葉カナタ(以下コトカナ)に関する細かいことは上の記事で確認してください。ここでは、コトカナとコドユリのテーマ的関連について書いていきます。
コトカナでは、オーストリア生まれの哲学者、ウィトゲンシュタインの著書『論理哲学論考』が引用されていました。詳しい内容などはもちろん省きますが、コトカナではその『論考』が主たるテーマになっていたと解釈しています。この世界は存在するのか、という根本的な問い。その問いに対する答えを探し続けるのがコトカナです。最終的にコトカナでは、「この世界が実際に存在するのか分からなくとも、今見えているこの世界を美しいもの、その瞬間のものとして肯定する」という答えが導かれます(少なくとも僕はそう解釈しました)。こうした考えは、ウィトゲンシュタインの考えに、「一瞬である事の価値」という「時間」の観点を加えた考えであるともいえます。
また、アランの『幸福論』も取り上げられていました。僕はアランの『幸福論』を実際に読んだことはありません(…というか、分厚すぎて読む気が起きなかった)。ですが、ちょっと調べてみました。アランとは、「あらゆる不条理に対しても、心に余裕をもって接することで得られる精神的な平穏」を幸福と捉えた人物だそうです。つまり、コトカナは、アランのこうした精神的な平穏を重視する幸福論を採用したと考えられます。ここにコドユリとの共通点があるように思えました。
2で述べたように、”実”と”虚”を隔てるものは本人の心=意識だけです。それは、言い換えれば、やはりコトカナと同じく「不確かな世界に対する無条件の肯定」ではないでしょうか。コトカナでは一瞬である事の価値を加えて不連続な世界を肯定していましたが、コドユリでは、時間すら必ずしもそれだけの決まった量を持たず、心=意識の決定に依存していると解釈しました。
4.電波と意識
コドユリのジャンルは「新・電波ノベルADV」です。一般的に考えれば「電波」とは、いわゆる意味不明な展開のことを指します。…ですが、コドユリの「電波」はちょっと違うと思います。コドユリの「電波」は、単なる意味不明展開の総称ではなく(もちろんその意味もあるとは思いますが)、何と言いますか…それ以上の意味を持っていると思います。
ガウスやらシュレディンガーやらが書いてある上の画像は、澪の手記のシーンの合間に挟み込まれるものです。一見すると何の画像か分からないですよね(僕も全く分かりませんでしたし…)。理系の友人に聞いたところ、これは「電磁気と量子力学の公式+RLC回路の解法」らしいです(僕には何が何だかまったくわからないww)。特定の周波数を取り出すのに使える(ラジオの選曲みたいに)とかなんとか…?典型的文系の僕にはもはや何が何だか分かりません…
まぁ、ライターさん曰く、これは完全に理解する必要はないそうです。物理が関係していると言うことさえわかれば、理解するのに必要な材料は全部そろっているそうです。無い頭で僕なりに考えてみますと、「心=意識=電波」であり、澪の身に起こった出来事は、その電波=周波数が取り出されて、「向こう側の世界」を見せられたことで生じた出来事だっていうことなのかなと思いました。うーん…なんだか言葉で伝えづらいですね…。(この辺については、これからまだまだ考察していって、自分の考えがまとまってきたら改めて記事にしたいと思っています。どうしても分からなかったらライターさんにギブアップ宣言という名の〇〇顔ダブル〇〇〇ビデオレターを送ります!w)
澪の手記の言葉を借りて説明しますと、「心=意識」であり、「意識=波」ということです。そしてその波は脳の電気信号によって成り立っているので、「波=電波」ということですよね。
うーん…やっぱりここら辺になると、まだまだ分からないところだらけですね…。どういうことなのやら…。全然関係ないかもしれませんが、サクラノ詩でも「因果交流電燈」という表現がありましたよね。まぁ、これは元々は宮沢賢治から来ていると思われますので、きっとコドユリとは関係ないでしょう。ただ、ふと想起したので書かせてください。宮沢賢治もそう書いていたことを考えると、人の意識を電気的なものと捉え、その電波的な意識(意識としての電波)が交流して人との関わりが形成されるという考えは、そういう意味では案外一般的なのかもしれませんね。科学が一般大衆の思想にも定着した現代においては、人の感情そのものを電気的な信号と見なす考えもそれほど稀有ではなくなりましたしね。
やっぱりこの辺はまだまだ理解できていないので、近いうちに改稿すると思います。ならまだ公開すんなよ!と思われるかもしれませんが、段階的に公開していくのもよくありません?(まぁそもそもこんな記事を読んでくださる方なんて数人でしょうね…いや…待てよ…コドユリがDL販売された後なら伸びるかも…!?)
5.言葉の布のユリカゴ
「ユリカゴ」に関する考察は、物語的考察がまだ済んでいない段階で書くべきか悩んだのですが、何となくイメージはつかめたような気がするので、あくまで暫定版としてですが、僕の理解したところを書かせてください。
体験版をやったときからユリカゴって何だろうなとは考えていたのです。ユリカゴというと、母性あふれる安寧の地というイメージがありました。それも合ってたと言えば合ってたと思うのですが…何となく…微妙に…ちょっとだけ…違う気がしました。
コドユリって…何となく…適当に…軽くプレイすると…結構ポジティブな印象を受けるんですよね(少なくとも第一印象としては)。でも、実際にはむしろその逆っていう…(多分)。コトカナでは、ウィトゲンシュタインの幸福論とアランの幸福論を採用していました。この2人の幸福論は、僕が思うに楽観的な幸福論です。(ウィトゲンシュタインの幸福論については雑にですが過去記事でも書いています)
↓ウィトゲンシュタインの幸福論に関する過去記事はこちら
ウィトゲンシュタインもアランも、幸福であるための条件を内面に求めてますし、そういう意味で楽観的な幸福論だと思うのです。一番最初にコドユリをやったときも、近いもの感じたんです。…ですが、改めてやっていくうちに、実際にはむしろ反対のネガティブな印象を抱くようになりました。
言葉は孤独を深める。
そしてそれは紡ぎ紡がれ1つの布になり、私を包む。
それはまるでユリカゴのよう。
うーん…言葉ではものすごく説明しづらいんですが…何と言いますか…コドユリが辿り着いた世界観って結構寂しくありません?コトカナは、ウィトゲンシュタインを引用し、彼の独我論的世界観を採用していました。蛇足になりますが、ウィトゲンシュタインの独我論は、他の一般的な独我論と違って、実在論と一致しています。つまり、ウィトゲンシュタインの独我論には明確に他者が存在しますし、器たる世界が存在します(この辺についても過去記事で書いています)。ですので、コトカナが辿り着いた世界観はどちらかというとポジティブなものだったと思うのです。
↓ウィトゲンシュタインの独我論に関する過去記事はこちら
一方のコドユリはそうとは思えませんでした。何と言いますか…コドユリが辿り着いた世界観は、むしろウィトゲンシュタイン以外の人が論じた独我論に近いんですよね。(専門的には現象主義的独我論と呼ぶらしいですが、そんなことはどうでもいいのです)コドユリの最終的な世界には、私しかいないじゃないですか。「私は世界、世界は私」と澪が語っているように、あの中には私1人しかいないじゃないですか。他の主体はすべて、その私が「実」と信じてやっと存在しうるものでありますし、ウィトゲンシュタインの独我論と違って、自動的に(強制的に)他者が存在することを認めざるを得ない世界観じゃないんですよね。うーん…うまく伝えられているかどうか…。ごめんなさい…考えがまとまってから書けっていう話ですが、考えるより先に指が動いてしまうのです…。要するに…澪の「私は世界、世界は私」という言葉は、『論考』の中にある「私と生は一つである」という命題と似ているようでまったく違いますよねっていうことです。
はぁ…もうそろそろコドユリの考察に全霊を費やして1週間経つのですが…未だその全貌が掴めません…。コトカナと違って、物語が難解になっていまして、そのせいなのかテーマすらも掴みにくくなっているように思います(もちろんそれが良い悪いということではないですが)。ライターさん曰く、コドユリのテーマは、それぞれが自分なりに見出すものらしいのですが、そういう意味では僕はすでにコドユリのテーマを、何となく自分なりに抱けているとは思うんですがね…
全然うまくまとめられたとは思いませんが、とりあえずこの辺で終わりにしたいと思います。もう少し考えがまとまったら、物語的感想・考察の記事も書くつもりですし、その過程でまた新たなテーマを見つけられたら、こちらの記事を改変するかもしれません。
引き続き、よろしくお願いしますm(__)m
(まぁ、そもそもこの記事の需要なんて0に等しいでしょうが…)
(追記)
次回は未定です。