『京大生』のエロゲ備忘録

現役『京大生』がプレイし終わったエロゲの感想を淡々と紹介していくブログです。一部amazarashiと『論理哲学論考』の考察も含みます。一部の作品ではネタバレ全開で考察を書いています。アメブロでは成績公開をしていました。

論理哲学論考を読んで②(6534文字)【ウィトゲンシュタイン】【論理哲学論考】

京大合格発表が不安すぎて全く眠れず…寝るのを諦めました。

 

正午までの約10時間を潰すためにも再び『論理哲学論考(論考)』について書いていきたいと思います。

 

↓前回記事はこちら

ame-sara1126.hatenablog.jp

 

とりあえず、ここで前回のまとめでもしておきましょうか。

 

まず、『論理哲学論考(論考)』の終着点は「思考の限界」を画定することで従来の哲学問題が「思考の外側」にあることを示すことでした。

 

そして、「思考の限界」を画定するためにはどうしたらいいかといいますと、それはひとまず「言語の限界」を画定するということでした。

 

しかし、「思考の限界」と「言語の限界」が必ずしも一致するとは限らないので、このままでは不十分でした。

 

そこで「言語」を、「代替物」を使用して箱庭たる「」を作り上げることのできるもの、と幅広く定義することで、両者を一致させることに成功しました。

 

また彼は、「事実」の総体である「現実世界」を、「事態」を包含した「論理空間」として捉え直そうと試みました。

 

そうした、いわば「現実性から可能性への移行」を可能にしたのが「像」を作り上げることのできる「言語」でした。

 

「言語」を用いれば、諸事実を「対象」に解体し、それら諸対象の新たな結合を箱庭たる「像」において表現することができます。

 

彼は、この「言語」の力に目を付けたのでした。

 

とまぁ、以上が前回の概要です(かなり端折りましたが)。

 

では、以下からがその続きです。

 

15.「対象」の「内的な性質」と「外的な性質」

 

前回述べた通り、「現実性」から「可能性」へと思考をジャンプさせるためには、「事実」をいくつかの「対象」へと解体する必要がありました。

 

では、「事実」を「対象」 に解体するとは具体的にどういった作業なのでしょうか。

 

 二・〇一二三一 対象を捉えるために、確かに私はその外的な性質を捉える必要はない。しかし、その内的な性質のすべてを捉えなければならない。 

 

この言葉がその問いに答えています。

 

注目すべきは「外的な性質」と「内的な性質」という部分です。

 

両者の違いを説明するために、『論理哲学論考を読む』で用いられていた具体例をあげましょう。

 

例えば、「赤いトマト」があったとします。

 

この時、「赤い」という性質は「外的な性質」です。

 

なぜなら、「赤くないトマト」を思い浮かべることが可能であるからです。

 

他にも、「太った猫のミケちゃん」がいたとします。

 

この時、「太った」という性質は「外的な性質」です。

 

なぜなら、「太っていない猫のミケちゃん」を思い浮かべることが可能であるからです。

 

このように、その性質が変化したとしても、本質的に「対象」そのものを変化させるまでには至らない性質が「外的な性質」です。

 

では、一方の「内的な性質」とはどういったものでしょうか。

 

結論から申しますと、その性質が変化してしまうと、「対象」そのものが本質的に存在しえなくなってしまう性質が「内的な性質」です。

 

そもそも、物体はみな何かしらの「時間空間的位置」を有します。

 

例えば、「机の上にあるトマト」は「机の上」という「時間空間的位置」を有しています。

 

この時、そのトマトが有している「時間空間的位置」が「机の上」であるという性質は「内的な性質」ではありません。「外的な性質」です。

 

なぜなら、「机の上」以外の「時間空間的位置」も持ちえたからです。

 

しかし、何かしらの「時間空間的位置」を有しているという性質は「内的な性質」です。

 

なぜなら、一切の「時間空間的位置」を有していない物質は思い浮かべることすらできないからです。

 

少し、具体例を多用しすぎたでしょうか…

 

ここで一般形に戻します。

 

つまり、「外的な性質」とは「対象」を本質的に変えるに至らない性質であり、「内的な性質」とは「対象」を本質的に決定する性質です。

 

16.「内的な性質」を「形式(論理形式)」と読み換える

 

「内的な性質」を15で述べたように定義しますと、そもそも「性質」と呼んでいいものかという疑問が湧いてきます。

 

「トマト」に対して、「このトマトは甘い味がする」という性質が「外的な性質」であり、「このトマトは何かしらの味を有している」という性質が「内的な性質」であるわけですが、後者の性質は普段我々が性質と呼んでいるものとは何となく違う気がします。

 

彼は、そうした混乱を避けるために「内的な性質」を「形式(論理形式)」と読み換えました。

 

こうすれば、「内的な性質」という曖昧な単語よりも明確に「外的な性質」と区別がつけられますね。

 

よって、15で述べた「二・〇一二三一」は次のように言い換えるべきでしょう。

 

二・〇一二三一改 対象を捉えるために、確かに私はその対象の「外的な性質=性質性質」を捉える必要はない。しかし、その対象の持つ「内的な性質=論理形式」のすべてを捉えなければならない。

 

つまり、「対象」の持つ性質は「外的な性質=性質」と「内的な性質=論理形式」の2つに分けられるということです。

 

17.「対象を捉える」とはどういうことか

 

「対象を捉える」とありますが、そもそも「対象を捉える」とはどういうことなのでしょうか。

 

光文社の丘沢静也氏とちくま文庫野矢茂樹氏が共に「捉える」と訳している部分は、ドイツ語では「kennen」と書かれている部分です。

 

これは一般的には「知る」と訳されるそうです。

 

ですが、丘沢氏も野矢氏も「知る」ではなく「捉える」と訳しました。

 

それは以下の理由です。

 

ある「対象」について我々が「知った」時、我々はその「対象」の「外的な性質=性質」に対する知識を持ったことになります。

 

もし「kennen」を「知る」と訳してしまったら、「対象を捉える」とは「対象」の「外的な性質=性質」に対する知識を持ったということのみに限定されてしまいます。

 

それでは、「内的な性質=論理形式」を忘却していることになります。

 

よって、お二方は共に「kennen」を「捉える」と訳したのです。

 

話を戻して、「対象を捉える」とはどういうことか考えましょう。

 

例えば「トマト」という「対象」があったとします。

 

この時、「トマト」という「対象」を捉えるためには、そのトマトは甘いのか甘くないのか、赤いのか赤くないのか、大きいのか小さいのかといった様々な問いをしなくてはなりません。

 

この「甘い」「赤い」「大きい」「小さい」というのはすべて「外的な性質=性質」ですよね。

 

彼が述べたように、「対象」を捉えるためにはこうした「外的な性質=性質」をすべて知っておく必要はありません。

 

知っておく必要があるのは、その「対象」の「内的な性質=論理形式」です。

 

では、この場合、「論理形式」とは何を指すのか。

 

それは、いわば「質問のジャンル、レパートリー」です。

 

ある人がどこに住んでいるのか知らなかったとしても、どこに住んでいますか?とその人に尋ねることは可能ですよね。

 

同様に、細かい具体的な「外的な性質=性質」を完全に知らなくても、何を尋ねようかということさえ決まっていれば尋ねることは可能です。

 

この「何を尋ねようか」ということこそが「論理形式」なのです。

 

つまり、「対象を捉える」とは、その「対象」の何を尋ねるのかという「質問のジャンル、レパートリー」たる「論理形式」を知っているという前提の下で、細かい具体的な「外的な性質=性質」を突き詰めていく、ということです。

 

18.「論理形式」を知りえたことは必要十分条件になりうるのか

 

17で述べた通り、「対象」を捉えるためには、少なくともその「対象」の「論理形式」を知っておく必要があります。

 

では、逆に、「論理形式」を知っていればその「対象」を捉えたことになるのでしょうか。

 

つまり、「論理形式」を知っているということは「対象」を捉えるための必要十分条件になっているのでしょうか。

 

結論から申しますと、必要条件であり十分条件ではありません。

 

それは以下のような理由です。

 

2つの「トマト」を考えます。

 

1つは「このトマト」、もう1つは「あのトマト」とします。

 

この時、両者の「論理形式」は一致していますよね。

 

なぜなら、それが甘いのか甘くないのか、赤いのか赤くないのかといった「質問のジャンル、レパートリー」は共通だからです。

 

(面接において、面接官が志願者に投げかける質問が全部同じであるのと同様ですね。)

 

しかし、実際には2つの「トマト」は別のものです(「この」と「あの」が指すものは違うのですから)。

 

よって、「論理形式」を知りえたとしても「対象」をすべて捉えたことにはなりえません。

 

19.「内容」と「論理形式」を併用して「対象」を捉える

 

18で述べた通り、「対象」を捉えるためには「論理形式」に訴えるだけでは不十分です。

 

ですが、「外的な性質=性質」にも訴えればいいというわけでもありません。

 

先ほどと同じ例を考えてみましょう。

 

「このトマト」と「あのトマト」は「論理形式」は同じです。

 

ここで、両者のそれぞれに「外的な性質=性質」を加えることで両者を区別することを試みます。

 

「このトマト」は「机の上」にあるトマトとし、「あのトマト」は「冷蔵庫の中」にあるトマトとします。

 

こうすれば、一見すると区別できているように見えるかもしれません。

 

ですが、本質的には全く区別できていません。

 

なぜなら、「このトマト」を「冷蔵庫の中」に入れてしまえば、それは「あのトマト」と同じになってしまうからです(逆もまた然り)。

 

よって、「論理形式」だけではもちろん不十分ですが、「外的な性質=性質」を加えてもまだ不十分だということがわかりました。

 

では、どうすれば区別が可能になるのかといいますと…

 

それは『論考』でも明確に叙述されていないと思われます。

 

よって、以下には『論理哲学論考を読む』にて著者の野矢茂樹氏が展開していた持論をあげます。

 

僕が言うのもなんですが、これで間違っていないと思います。

 

それは、「指示語」と「論理形式」を示唆する言葉の両方を併用することによってです。

 

 例えば、「このトマト」と言っただけでは確かに特定するのは困難ですが、そこに「論理形式」を適切に示唆する言葉、いわば「内容」を加えたらどうでしょう。

 

こうした、「この~」という指差しと「論理形式」を適切に示唆する「内容」を組み合わせることにより、「対象」は取り出されます。

 

二・〇二三三 論理形式が同じ2つの対象を――外的な性質を別として―― 区別するのは、2つの対象が異なっているということだけである。

 

二・○二三三一 ある事物が、ほかのどの事物にもない特性を持っているなら、それを記述することによって、簡単にほかの事物から引き立てることができる。そしてその事物を指し示すことができる。そうでない場合には、すべての特性を共有している事物がいくつかあるわけだから、どれか1つを引き立てて指し示すことなど、不可能である。

 というのも、なにによっても際立っていない事物なら、私はその事物を際立たせることができないのだから。というのも、私が際立たせることができるなら、その事物はまさに際立っているのだから。

 

二・〇二五 実体は、形式と内容から成る。 

 

彼のこの3つの言葉を読むと、彼本人も、明示していないだけで、野矢氏と似たようなことを考えていたと推測されます。

 

ですので、野矢氏の考えをこのブログでは用いさせていただきます。

 

20.「言語」を用いて「対象」を的確に捉える

 

 19で述べた通り、「指示語」と「内容」を併用することで「対象」を捉えることはずっと容易になります。

 

ですが、それでもまだ不十分です。

 

なぜなら、それだけでは、「内容」によって示唆された「論理形式」を把握できていないからです。

 

そこで再び必要となるのが「言語」です。

 

前回の①の記事で述べた通り、「言語」には「可能性」に開く能力があります。

 

したがって、「可能性」に関わる「論理形式」を把握するためには「言語」が必要となります。

 

21.「命題」と「名」

 

「言語」によって、具体的にどうやって「対象」の「論理形式」を把握するのかということに入る前に、前提知識となる「命題」と「」という2つの用語を導入します。

 

「命題」とは「像」として機能している文のことです。

 

ここで再び『論理哲学論考を読む』で用いられていた具体例をあげましょう。

 

例えば、「おはよう」や「窓を開けてくれないか」といった文があったとします。

 

これらの文は確かに「言語」ではありますが、「像」として機能しているわけではありません。

 

これらの文をシミュレーションの場所として、考えている「可能性の世界」などないと思われるからです。

 

これらとは種を異にした、「像」として機能している文こそが「命題」と呼ばれます。

 

そして、「命題」を構成している要素を「」と定義します。

 

また、「命題」は「名」のみから成ると定義します。

 

あくまで便宜上、そう定義しただけにすぎませんが。

 

22.「対象の論理形式」と「名の論理形式」の一致

 

話を戻しますと、目的は「事実」を「対象」へと解体することでした。

 

そして、その解体した「対象」を捉えるためには「対象の論理形式」を把握する必要があることがわかりました。

 

今問題となっているのは、どうやって「対象の論理形式」を把握するかということです。

 

前述の通り、「対象の論理形式」とは、ある「対象」がどのような性質をもちうるのかという「質問のジャンル、レパートリー」の豊富さ、いわば、「尋ね方の可能性の範囲」を示したものです。

 

しかし、「対象」の持つどんな性質もすべては「現実世界」のものです。

 

(例えば、トマトという「対象」が持つ「甘い」や「固い」といった性質はすべて「現実世界」のものです。)

 

それでは、いくら「対象の論理形式」を眺めていても、「現実世界」に留まるだけで「可能性の世界」へと飛躍できません。

 

そこで、出番となるのが「名」です。

 

「対象」の代わりに「可能性の世界」の一部である「名」を用いることで、「対象の論理形式」を「可能性」へと移行させることができます。

 

ゆえに、「対象の論理形式」は「名の論理形式」と厳格に一致します。

 

二・〇一四一 対象が事態のなかに登場する可能性が、対象の形式である。

 

二・〇二三一 世界の実態は、形式だけを規定することができる。物質的な特性を規定することはできない。というのも物質的な特性は、命題によってはじめて描かれ――対象の配置によってはじめて像となるのだから。

 

より簡単に言うならば、ある「名」が有意味であるかどうか判断することで、その「名」から成る「命題」が有意味であるかどうかが決定され、「対象の論理形式」の可能性の範囲が定まるということです。

 

よって、問うべきは「名の論理形式」です。

 

「名の論理形式」を把握することで、その「名」が代わりとなっていた「対象」の「論理形式」が理解できるようになり、「現実世界」のものにしかなりえなかった「対象の論理形式」を、可能性としての世界たる「論理空間」に立って把握することが可能になるのです。

 

以上で今回は終わりにしたいと思います。

 

午前2時頃に書き始めたのですが、もう5時前でした…

 

やっぱり頭で理解するだけよりも、それを文章に正しく書き起こすほうがよっぽど大変ですね…

 

あぁ、あと7時間後に合格発表かぁ…怖いなぁ…

 

まぁ、思い悩んでも仕方ないので耐えようと思います!

 

前回より分量はやや少ないですが、内容自体はむしろこちらのほうが難しかったように思いました。

 

わかりにくい説明で申し訳ないです。

 

とはいえ、前回の記事の最初の注意書きに書いた通り、僕の説明はほとんど『論理哲学論考を読む』の説明の仕方を踏襲しているだけですがね。

 

それでは、また逢う日まで…

 

↓次回記事はこちら

ame-sara1126.hatenablog.jp

 

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