エロゲ備忘録~徒然なるままに~

アメーバにて受験生ブログを書いていた元浪人生です。勉強もせずエロゲばかりやっていました。エロゲの感想や個人的批評でも書きます。あくまで備忘録に過ぎませんので比較的薄っぺらい内容の話しかしませんのであしからず…。(2017年追記 〇都大学法学部に合格いたしました)

論理哲学論考を読んで③(6160文字)【ウィトゲンシュタイン】【論理哲学論考】

京大の入学手続きも引っ越しの準備も終わり、やっと一息つけました…

 

さて、空いた時間で更新を続けていきたいと思います。

 

第18回目となる今回は、予告通り『論理哲学論考(論考)』の続きを書いていきたいと思います。

 

↓前回記事はこちら

ame-sara1126.hatenablog.jp

 

例に倣って、今回も前回までのまとめを書いておきましょう。

 

①のまとめは②の記事に書いてありますので、以下には②のまとめだけを書きますね。

 

「現実性」から「可能性」へと思考をジャンプさせるためには、「事実」をいくつかの「対象」へと解体する必要があります。

 

そのためには、「対象」の「外的な性質」をすべて知る必要はありませんが、「内的な性質」はすべて知る必要がありました。

 

「外的な性質」とは普段我々が「性質」と呼ぶものであり、「対象」そのものを本質的に変化させるに至らない性質のことでした。

 

一方の「内的な性質」とは、その性質が変化してしまうと「対象」そのものが本質的に存在しえなくなってしまう性質のことでした。

 

彼はこうした「内的な性質」を「形式(論理形式)」と名付けることで、「外的な性質=性質」と「内的な性質=論理形式」とを区別しました。

 

「論理形式」とは「質問のジャンル、レパートリー」とも言い換えられ、これを把握することが「対象を捉える」ということです。

 

しかし、「論理形式」を把握しえたことは「対象」を捉えるための必要十分条件ではありません。

 

「対象」を正確に捉えるためには、「この~」といった「指示語」と、「論理形式」を適切に示唆する「内容」とを組み合わせることが必要でした。

 

そして、示唆された「論理形式」を把握するために、「可能性」に開く能力を持った「言語」が再び必要となりました。

 

しかし、「対象」の持つ性質は当然すべて「現実世界」のものですから、いくら「対象の論理形式」を眺めていても「可能性の世界」へと飛躍できません。

 

そこで出番となるのが「命題」とその構成要素である「」でした。

 

「対象」の代わりに「可能性の世界」の一部である「名」を用いることによって「対象の論理形式」を「可能性」へと移行させることができます。

 

ゆえに「対象の論理形式」と「名の論理形式」は厳格に一致することがわかり、「名の論理形式」を突き詰めればいいとわかりました。

 

とまぁ、以上が前回の概要です。

 

では、以下からが続きとなります。

 

23.「性質」や「関係」は「対象」に含まれるのか

 

①で保留にした問題の一つに、「性質」や「関係」を「対象」に含めるか否かという問題がありましたよね。

 

ここでその問題にひとまずのケリをつけたいと思います。

 

背理法的に、まず、「性質」や「関係」は「対象」に含まれず、個々に存在する「個体」だけが「対象」を構成すると仮定して論を進めていきます。

 

そうすると、②で述べたように、「対象」は「」と呼応しますので、「名」も「個体」のみから成るということになります。

 

つまり、あらゆる「命題」は「個体」すなわち「固有名詞」で表現されうるということになります。

 

しかし、こう考えると矛盾?が生じてきます(背理法ですので矛盾を示すことが目標ですよね)。

 

例えば、「太郎くんは背が高くて、花子さんは背が小さい」という「命題」があったとします。

 

この時、「命題」はすべて「固有名詞」から成ると仮定すると、この「命題」も例外なく「固有名詞」だけで表現できるはずですよね。

 

しかし、実際にそんなことは可能なのでしょうか。

 

「固有名詞」とはこの「命題」でいうと「太郎くん」と「花子さん」のみです(「背が高い」と「背が小さい」は「性質」ですので、「固有名詞」には含まれません)。

 

果たしてこの「太郎くん」と「花子さん」というたった2つの「固有名詞」だけで「太郎くんは背が高くて、花子さんは背が小さい」という「命題」を表現できるでしょうか。

 

結論から申しますと、できません。

 

三・一四三二 「複合記号「aRb」が、aがbに対して関係Rにあることを語っている。」否。そうではなく、「a」が「b」に対してしかじかの関係にあるという事実が、aRbという事実を語っているのである。

 

彼のこの言葉がその理由を物語っています。

 

この言葉が言いたいことは次のようなことです。

 

例えば、「~は白い」もまた「名」であるとして、「ポチ」という「名」と「~は白い」という「名」を考え、この2つの「名」を組み合わせて「ポチは白い」という「名」の配列を作ったとします。

 

この時、「ポチ」という「名」と「~は白い」という「名」がこのように配列されているという事実が、「ポチは白い」という「事実」を表現しています。

 

決して、「ポチ」という「名」が「~は白い」という「名」の上にあるといった、新たな「関係」を説明する必要はありません。

 

仮にそのような「名」と「名」の配置の「関係」に対して「R」という「名」を与えたとしても、その時は、「ポチ」「~は白い」「R」という3つの「名」の「関係」に対して再び「名」を与えなければならなくなり、無限ループとなります。

 

「三・一四三二」により即して言い換えるならば次のようになります。

 

「a」という「名」と「b」という「名」がしかじかに配置されているという「事実」がある「事実」を表現しており、この時、「a」という「名」と「b」という「名」の配置を「aRb(aとbは関係Rにある)」のように表現する必要はないということです。

 

もしそのように表現したとすれば、今度は「a」「b」「R」という3つの「名」の配置を新たな「関係」、例えば「S」を導入して、「SaRb(aとRとbは関係Sにある)」のように書かなければならなくなり、無限ループに陥ります。

 

つまり、「命題」を規定しているのは「名」と「名」がしかじかに配置されているという「事実」そのものであり、その配置関係ではありません。

 

よって「固有名詞」だけでは「命題」を表現することはできず、最初の仮定が間違っていたとわかります。

 

したがって、「性質」や「関係」も「対象」に含まれるということがわかりました。

 

現に、彼自身も『論考』の大本となった『草稿』において次のように書いています。

 

関係や性質などもまた対象である。(『草稿』より引用)

 

『論考』執筆までの間に彼の考えが変わった可能性は否定できませんが、とりあえずは「性質語」と「関係語」を「対象」に含めても何ら問題はないでしょう。

 

よって、ここでは含めるものとして議論を進めていきます。

 

24.「名の論理形式」のパターン

 

23の議論は本筋から少し離れていましたね。

 

ここで本筋に話を戻しますと、突き詰めるべきは「対象の論理形式」であり、②で述べたようにそれは「名の論理形式」と一致するものでした。

 

ゆえに「名の論理形式」を把握することが目的であることがわかりました。

 

ですが、そもそも「名の論理形式」とはどういうものなのでしょうか。

 

それは端的に言えば、ある「名」が他の「名」とどのように結びつきうるかということであり、いわば、「名」から「命題」を作りうる「可能性」を示すものです。

 

例えば「ポチ」「白い」「親子である」という3つの「名」があったとします。

 

この時、「ポチ」は「白い」とは結び付くことができますが、「親子である」とは結び付くことができません。

 

なぜなら、「ポチは親子である」という「命題」はナンセンスだからです。

 

このように、ある「名」が他の「名」と結びつく際の「可能性」の範囲を示したものが「名の論理形式」であるといえます。

 

また、「名の論理形式」にもパターンがあります。

 

ここで、『論理哲学論考を読む』で書かれていたパターンを紹介したいと思います。

 

それは「品詞カテゴリー」と「意味カテゴリー」です。

 

「品詞カテゴリー」とは、その「名」が「個体」を表す「固有名詞」なのか、「性質」を表す「性質語」なのか、「関係」を表す「関係語」なのかという分類に関わる「論理形式」です。

 

例えば、固有名詞「ポチ」に性質語「白い」を結び付けた「ポチは白い」という「命題」は有意味ですが、固有名詞「ポチ」に関係語「親子である」を結び付けた「ポチは親子である」という「命題」はナンセンスです。

 

この時生じるナンセンスか否かの判断基準こそが、「品詞カテゴリー」、すなわち、品詞を適切に用いているかどうかということなのです。

 

一方の「意味カテゴリー」とは、「品詞カテゴリー」的には正しいが、意味的に許される「命題」かどうかということに関する「論理形式」です。

 

例えば、固有名詞「トマト」に「トマちゃん」という名前を付けたとします。

 

この「トマちゃん」という固有名詞に性質語「神経質だ」を結び付けた「トマちゃんは神経質だ」という「命題」は「品詞カテゴリー」としては適切ですが、意味上許されない結合となっています(なぜならトマトが神経質なことはありえないから)。

 

他にも、「この机はあのベッドの親である」や「ウィトゲンシュタインは2で割り切れる」といった「命題」も、「品詞カテゴリー」としては適切ですが、意味上許されない結合です。

 

このように、「名の論理形式」には「品詞カテゴリー」と「意味カテゴリー」の2パターンあります。

 

25.どのようにして「名の論理形式」を把握するのか

 

24で述べたように、「名の論理形式」には「品詞カテゴリー」と「意味カテゴリー」の2パターンあります。

 

では、こうした「名の論理形式」はどのように把握されるのでしょうか。

 

例えば「ミケ」という「名」の「論理形式」を考えるとしたとき、「ミケは猫である」という「命題」が真であるとわかれば、「ミケ」の「論理形式」も明らかになると一見思われます。

 

なぜなら、「ミケ」が「猫」とイコールであるとわかれば、少なくとも「ミケ」には何らかの形があり、何らかの時間空間的位置を持ち、何らかの重さを持ち、さらには「ニャー」と鳴いたりするだろうと容易にわかるので、「ミケ」の「論理形式」は把握できると思われるからです。

 

しかし、問題はそう簡単ではありません。

 

我々がそう判断できるのは、「猫」という「名」の「論理形式」をすでに知っているからです。

 

「猫」が何であるかわからない人、すなわち「猫」という「名」の「論理形式」を持ち合わせていない人にとっては、「ミケ」が「猫」とイコールであるということは、「ミケ」の「論理形式」を把握する上で何の役にも立ちません。

 

同じように、「猫」という「名」の「論理形式」についても把握するのは容易ではありません。

 

たとえ「猫」と「動物」がイコールであるとわかったとしても、「動物」という「名」の「論理形式」を持ち合わせていなかったら意味がないからです。

 

では、「猫はこれだ」や「ミケはこいつだ」といった「指示語」を用いて指し示せばいいのかといいますとそれも違います。

 

なぜなら「指示語」で指し示すことができるのは「現実世界」のものでしかありえず、「可能性の世界」にある「名」を正確に把握することはしょせんできないからです。

 

このように、「名の論理形式」は、把握するのに非常に困難であるといえます。

 

「名の論理形式」は互いに関連し合っており、一つずつ別個に説明することはできないのです。

 

「名の論理形式」を説明するためには、「名の論理形式」を全体的に捉える必要があります。

 

三・二六三 原始記号の意味は解明によって明らかにされうる。解明とはその原始記号を命題において用いることである。それゆえそれらの記号の意味がすでに知られているときにのみ、解明は理解されうる。

 

この彼の言葉がそれを言い表しています。

 

ここでいう「原始記号」こそが「名」と一致します。

 

つまり、この言葉の意味するところは次のようなことです。

 

「名」の意味は解明によってなされ、解明はその「名」を用いて様々な「命題」を作ってみせることによってなされます。

 

それゆえ、それらの「命題」の意味を理解できる人だけが「名」を解明することができます。

 

より簡単に言うならば、「言語」全体の循環の中における「名の論理形式」の把握を考えてみると分かると思います。

 

26.「言語」を全体的に理解して「対象」に到達する

 

我々が「事実」を解体して生じた「対象」を捉える際に踏むプロセスは、我々が「言語」を習得していくプロセスと多くの点で共通しています。

 

我々が母国語を習得した際、我々はいきなり「言語」全体の循環の中に参加していったはずです。

 

まだ言葉もよくわからない状態のまま、言語使用の只中に放り込まれたはずです。

 

しかし、我々は今現在こうして母国語(僕であれば日本語)を難なく使用しています。

 

これは、次のようなプロセスを踏んでいるからです。

 

我々は飛び交う「命題」の数々をいくつかの「名」に切り分けています。

 

(例えば「あそこの家の太郎くんは京都大学に合格したそうだ」と耳に挟んだら、「太郎くん」や「京都大学」といった「名」に切り分けています。)

 

それだけでなく、その「名」を互いに他の「名」と関連し合うものとして捉えて、その「論理形式」を網の目全体として捉えています。

 

(例えば「太郎くん」を「人間」と結びつけ、「京都大学」を「教育機関」と結びつけて、互いの関連の中でその「名」を理解しています。)

 

こうして、「名」を全体的にその関係性の中で捉えることで、我々は母国語を習得してきました。

 

同様のことが、我々が「対象」を捉える際に踏むプロセスにおいてもいえます。

 

例えば、一匹の猫、ミケの存在を認めたとします。

 

このことはそのまま、ミケが様々な「可能性」を背後に持っている存在であるということを了解しているということにもつながります。

 

(たとえば、太ったミケを想像したり、寝ているミケを想像したり、ひなたぼっこしているミケを想像したりすることができるということが、背後に潜む「可能性」の了解の例として挙げられます。)

 

つまり、眼前の「事実」から「対象」を切り出すには、その「対象」がどのような「事態の可能性」を持っているかということを、全体的に、すなわち他の「対象」との関連の中で知っている必要があります。

 

ある「名」の可能性は、その「名」がどのような「命題」に現れうるかという可能性、すなわち「名の論理形式」としてのみ捉えられます。

 

そして、その「名の論理形式」は、その「名」単独で与えられるのではなく、他の「名」と共に、「言語」全体の網の目として理解されるのです。

 

以上で今回は終わりにしたいと思います。

 

中々終わりに近づいてきませんね…

 

この調子だと、全部説明し終えたときは㊿くらいになっていそうな気がします…

 

数年単位でかかるとは思いますが、どれだけ時間をかけても必ず完成させたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いします。

 

それでは、また逢う日まで…

 

(追記)

次回は未定ですが、多分『論考』のことを書きます。

 

↓次回記事はこちら

ame-sara1126.hatenablog.jp

 

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