エロゲ備忘録~徒然なるままに~

アメーバにて受験生ブログを書いていた元浪人生です。勉強もせずエロゲばかりやっていました。エロゲの感想や個人的批評でも書きます。あくまで備忘録に過ぎませんので比較的薄っぺらい内容の話しかしませんのであしからず…。(2017年追記 〇都大学法学部に合格いたしました)

論理哲学論考を読んで④(10358文字)【ウィトゲンシュタイン】【論理哲学論考】

前回の更新からかなり時間が経ってしまいましたが…

 

決してサボっていたわけではなく、単純に大学生活が想像以上に忙しくて、読解している時間がなかったのが原因ですっ!

 

浪人時代の10倍は忙しいです。まぁ浪人時代は1日1時間も勉強していませんでしたから

 

1回生の内にこれほど大変だとしたら、学部専門科目ばかりになる3回生以降になったらどれほど大変になるのやら…

 

京大「法」学部なんてやめて、京大「文」学部にすればよかったかな…

 

自分の興味的にも「文」学部な気がするなぁ…

 

あと、ちなみに、第二外国語はドイツ語にしました。

 

ウィトゲンシュタイン然り、哲学とドイツ語は切って離せない関係にありますし、何より響きがカッコいいですぅ…

 

とまぁ、雑談はここら辺で終わりにしておいて…っと

 

では、久しぶりの更新を続けていきたいと思います。

 

今回も『論理哲学論考(以下論考)』に関する内容です。

 

↓前回記事はこちら

ame-sara1126.hatenablog.jp

 

例に倣って、今回も前回のまとめを書いておきます。

 

「現実性」から「可能性」の世界へと思考をジャンプさせるためには、「事実」をいくつかの「対象」へと解体する必要があります。

 

そこで、「性質」や「関係」は「対象」に含まれるのかという問題に関して、前回は書き始めました。

 

まず、背理法的に「性質」や「関係」は「対象」に含まれないと仮定すると、「固有名詞」だけで「命題」を表現することができることになります。

 

しかし、実際には「命題」を構成してるのは「名」と「名」がしかじかに配置されているという「事実」であり、「固有名詞」だけでは「命題」を表現しきることはできないということが分かりました。

 

したがって、「性質語」や「関係語」も「対象」に含まれることが分かったのでした。

 

一方、突き詰めるべきは「対象の論理形式」であり、それは「名の論理形式」と一致します。

 

「名の論理形式」とは、ある「名」が他の「名」とどのように結びつきうるかということであり、いわば、「名」から「命題」を作りうる「可能性」を示したものです。

 

さらには、「名の論理形式」には「品詞カテゴリー」と「意味カテゴリー」という2種類の分類があることも分かりました。

 

話を戻すと、「名の論理形式」を把握するにはどうしたらいいかということが前回の後半の主題でした。

 

それは、ある「名」を個別的に捉えるのではなく、互いに他の「名」と関連し合うものとして捉えて、その「論理形式」を網の目全体として捉えることによってでした。

 

こうして、「名」と「名」を互いに関連し合うものだと捉えて、全体的に客観的にその「論理形式」を捉える必要があるということが分かったのでした。

 

とまぁ、以上が前回のまとめです。

 

では、以下から続きを書いていきます。

 

あ!その前に今回の注意事項をお話しておきましょう。

 

そもそも『論考』は大きく分けて3つに分かれます。

 

序盤の「論理空間と現実世界の定義

中盤の「関数論的視点から見た論理学

終盤の「独我論や世界と私の捉え方

といった感じにです。

 

第3回目までで一応序盤の「論理空間と現実世界の定義」までは説明し切れたと思ってはいます。

 

したがって、今回からは中盤の「関数論的視点から見た論理学」について説明しなければいけないわけですが…

 

実は、この中盤こそが一番長ったらしくて取っつきにくいテーマなんですよね…

 

そういうわけですので、中盤だけは自分なりに結構端折ってお話しすることにします。

 

端折るとは言っても、本当に大事なことは一応全部書き切るつもりでいますので、『論考』が全体的にどういったものなのかは多分分かると思います。

 

終盤の「独我論や世界と私の捉え方」については序盤同様、しっかり書くつもりでいますので、あくまで端折るのは中盤だけです。

 

中盤まで詳しく書いてたら、数年かからないと記事が完成しない気がしたので…ごめんなさい…

 

というか「素晴らしき日々~不連続存在~」や「サクラノ詩-櫻の森の上を舞う-」のテーマから離れてしまい、本来の目的とは異なるので書かないという意味合いもあります。

 

では、注意事項もお話しし終えたので、さっそく続きを書いていきます。

 

今回は中盤の「関数論的視点から見た論理学」について端折って書いていきますね。

 

27.「論理学革命」における「論考」の位置

 

第1回目でも若干触れたとは思いますが、『論考』はその名の通り「論理学」について多く触れています。

 

「論理学」というと頭に?が浮かぶ人が多いとは思いますが、実は簡単な話です。

 

「生物学」が「生物」を対象とし、「社会学」が「社会」を対象とするように、「論理学」は「論理(論証)」を対象とします。

 

もっと簡単に言うと、普段私たちが何かしらを他人に伝えるときに用いている「論理」について突き詰める学問です。

 

例えば、「タコは八本足である。一方、ミズダコはタコである。よってミズダコは八本足である。」といった「命題」はれっきとした「論理」に基づいていますよね。

 

こうした「命題」の中にある「論理」を理解することで、自分の考えを他人に表現しやすくなり、かつ、他人の考えを自分が理解しやすくなるということを目的とした学問であるといえます。

 

※以上の論理学の定義は、京大の「論理学Ⅰ」の授業を担当なさっている山口尚氏によるものです。

 

話を戻しますと、『論考』はこうした「論理学」に一種の転換点をもたらした書物であるといえます。

 

いわば、「論理学革命」の真っ只中にあったわけです。

 

少しネタバレをしてしまうと、次のようなことになります。

 

従来の論理学者たちは、身の回りの物的自然、すなわち「自然科学」を理解するためのツールとして「論理学」を用いました。

 

いわば、「自然科学」が「論理学」を包含している関係にあります(後で書きますが、フレーゲの「記号論理学(現代論理学)」的に書けば「自然科学⊃論理学」となります)。

 

一方のウィトゲンシュタインは、「自然科学」と「論理学」を一致させ、世界を論理形式そのものと捉えました(いわば、「自然科学=論理形式」となります)。

 

このように、論理学者としてのウィトゲンシュタインは、従来の論理学者たちとは性質を異にしていたわけです。

 

よって、今回は主に、『論考』がそうした「論理学革命」の中でどのような位置を占めたのかということに関して書きたいと思います。

 

とはいえ、いきなり本題のウィトゲンシュタインの論理学から書き始めても何がなんだか分からなくなると思いますので、論理学がどのように生み出され、また、どのように変化していったかということについて書いていきたいと思います。

 

28.「伝統的論理学」とは何か

 

現代にも通じる「論理学」の基礎を築いたのは、「万学の祖」とも呼ばれる古代ギリシアアリストテレスです(彼の著作群である『オルガノン』にそのような旨の記述があるそうです)。

 

アリストテレス(前384~前322)

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それはどういった「論理学」だったのかというと、たとえば以下のようなものでした。

 

第一文:人間はみないずれ死ぬ。(大前提)

 

第二文:ソクラテスは人間である。(小前提)

 

第三文:ゆえにソクラテスはいずれ死ぬ。(結論)

 

つまり、「三段論法(Syllogism)」と呼ばれる「論理」です。

 

これは倫理の教科書に載っていることもあるほど有名な言葉ですよね。

 

ここにおいて、一つの文は「主語概念」と「述語概念」の結合から成り立っています。

 

たとえば、第一文の「人間はみないずれ死ぬ」という文は「人間」という「主語概念」と「(いずれ)死ぬ」という「述語概念」から成り立っています。

 

さらに、こうした「主語概念」と「述語概念」の結合が肯定的である場合と、否定的である場合に分けることもでき、前者は「肯定文」、後者は「否定文」となります。

 

また、そうした「述語概念」が「主語概念」のすべてにあてはまる場合と、一部のみに当てはまる場合に分けることもでき、前者は「全称文」、後者は「特称文」となります。

 

こうして「主語概念」と「述語概念」が結びつき、その基本形に「肯定⇔否定」と「全称⇔特称」の2つの区別が重ねられて計4つの基本文型が完成されます。

 

たとえば、先ほどの第一文は「全称肯定文」となります。

 

このように、計4つの基本文型が組み合わさることで三段論法を形成して結論を導くというのが、アリストテレス以来の基本的な論理学であり、それは「伝統的論理学」とも呼ばれます。

 

この「伝統的論理学」は、これ以降、19世紀の終わりまで継承されました。

 

論理学がこの確実な途をすでにもっとも古い時代から歩んできたことは、アリストテレス以来一歩も後退する必要がなかったことからも見て取られよう。

 

(中略)

 

論理学についてさらに注目すべきは、この学はまた今日にいたるまで一歩も進歩することができず、したがってどうみても完結し完成しているように思われることである。

 

カント『純粋理性批判』第二版序文 熊野純彦氏訳 より引用

 

カントに至っては、こうまで述べているほど、アリストテレス以来の「伝統的論理学」は完全体と思われていたわけですね。

 

29.「伝統的論理学」の落とし穴

 

ですが、アリストテレス以来の「伝統的論理学」には、ある種の落とし穴がありました。

 

「伝統的論理学」では、「ソクラテスは髭が生えている」といった「性質」は扱えますが、「AはBより大きい」や「AはBとCの関係にある」といった「関係」が扱えません。

 

前回も書いた通り、「性質」も「関係」も「対象」に含まれますので、これでは、すべての推論を体系化することなどできるはずもありません。 

 

他にも、三段論法を使用する際に度々陥ってしまう「後件肯定の誤謬」と「前件否定の誤謬」と言われる間違いがあります。

 

まず、「前件」と「後件」がそれぞれ何なのかを説明しなければいけませんね。

 

三段論法の基本単位となっている一文一文は、「PならばQ(P⇒Q)」といった構成で成り立っています。たとえば、先ほどの第一文の「人はみないずれ死ぬ」という文であれば、「人ならばいずれ死ぬ(人⇒(いずれ)死ぬ)」といった構成です。

 

この「PならばQ」の内、Pを「前件」、Qを「後件」といいます。

 

では、「前件」「後件」の説明もし終えたので、本題の、「後件肯定の誤謬」と「前件否定の誤謬」について説明しましょう。

 

まず、「後件肯定の誤謬」ですが、これは「後件を肯定して導かれる三段論法の結論に関する論理的間違い」を意味します。

 

ここは具体例を用いましょう。

 

第一文:PならばQである。(大前提)

 

第二文:あるものはQである。(小前提)

 

第三文:そのあるものはPである。(結論)

 

この三段論法は論理的に正しいでしょうか…?

 

正しそうにも見えますが、実は論理的に「誤謬、間違い」です。

 

なぜなら、P以外にもQとなるもの、たとえばRなどが存在する可能性があるからです。

 

こうした間違いは、「後件」である「Q」を、「あるものはQである」と「肯定」して導かれたものですので、「後件肯定の誤謬」と呼ばれるわけです。

 

京大の「論理学Ⅰ」の授業を担当なさっている山口尚氏が用いていた例を使わせてもらうと、たとえば、次のような推論が「後件肯定の誤謬」に当たります。

 

部下「警視!殺しです!凶器はナイフです!」

 

警視「…切り裂きジャックだな。ジャックは必ず犯行にナイフを用いる。」

 

この警視の推論は完全に「後件肯定の誤謬」に当たり、間違いですよね。

 

「ジャックが犯人ならばナイフを用いる」という論理が正しかったとしても、「ナイフを用いていればジャックが犯人になる」とは限りませんもんね。

 

では、続いて「前件否定の誤謬」について説明しましょう。

 

こちらも同じように考えると、「前件を否定して導かれる三段論法の結論に関する間違い」と言い換えられます。

 

具体例を用いますと、以下のようになります。

 

第一文:PならばQである。(大前提)

 

第二文:あるものはPではない。(小前提)

 

第三文:あるものはQではない。(結論)

 

この三段論法も論理的に「誤謬、間違い」ですよね。

 

なぜなら、Pではないとしても、P以外にQとなるもの、たとえばRなどが存在する可能性があるからです。

 

こうした間違いは、「前件」である「P」を、「あるものはPではない」と「否定」して導かれたものですので、「前件否定の誤謬」と呼ばれるわけです。

 

こちらも山口尚氏の具体例を用いさせてもらうと、以下のような推論が「前件否定の誤謬」に当たります。

 

先生「実際に手を動かして書いてみると漢字を覚えられるぞ。」

 

生徒(書かずに、目で見て漢字を覚えている)

 

先生「(その生徒に対して)なんだ、君、書いてないじゃないか。そんなんじゃ、漢字を覚えられないぞ。」

 

この先生の推論は完全に「前件否定の誤謬」に当たり、間違いですよね。

 

「手で実際に書けば漢字を覚えられる」という論理が正しかったとしても(実際、そもそも書かずとも覚えられるとは思いますが)、漢字を覚えるためには、必ず、手で実際に書かなければいけないというわけではありませんもんね。

 

以上が「後件肯定の誤謬」と「前件否定の誤謬」となり、「伝統的論理学」を用いる上での数少ない欠陥のひとつといえます。

 

これらの欠陥を指摘して新たな「論理学」として、「記号論理学(現代論理学)」を構築しようとしたのが19世紀の終わりに登場したフレーゲでした。

 

30.「記号論理学(現代論理学)」とは何か

 

フレーゲとは、19世紀ドイツの数学者・哲学者です。

 

フレーゲ(1848~1925)

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ここで注目すべきは、哲学者であると同時に数学者であるという点です。

 

そもそも「論理学」は数学(高校で言えば数A)と深い関係にあるのですが、数学者であるフレーゲだからこそ、今から説明する「記号論理学(現代論理学)」は生まれたと言えるでしょう。

 

アリストテレスが「万学の祖」と呼ばれるのに対し、フレーゲは「分析哲学の祖」と呼ばれたりもします。

 

では、さっそく彼の「記号論理学(現代論理学)」について説明していきます。

 

※以下の説明は『論理哲学論考(光文社 丘沢静也訳)』の説明を借りています。

 

28で述べた通り、従来の「伝統的論理学」は「語(word)」を基本単位としていましたが、フレーゲは「文(sentence)」を基本単位としました。

 

つまり、「名辞(term)」ではなく、「命題(proposition)」を基盤とする新たな論理学を提起したということです。

 

誤解を防ぐために、ここでいう「命題」が何を指すのかを説明しておきましょう。

 

ここでいう「命題」は、ただの「文」ではなく、あくまで「直説法の平叙文」に限られます。

 

たとえば、「AはBであるか」という「文」は「疑問文」ですので、ここでは「命題」とはなりません。

 

さらに、明らかに「真⇔偽」が決まるものである必要があります。

 

たとえば、「富士山は日本一高い山である」という「文」は明らかに真であると決まるので「命題」ですが、「富士山は日本一美しい山である」という文は「真⇔偽」が明確に決まらないので「命題」とはなりません。

 

なぜなら、「美しい」という価値判断は人によって異なるからです(僕のように群馬県民であれば、赤城山榛名山妙義山のほうが美しい!と言うかもしれません)。

 

このような「真⇔偽」のことを「真理値」といいます。

 

たとえば、先ほどの「富士山は日本一高い山である」という「命題」は、明らかに真であると判断できるため、この「命題」の「真理値」はただ一つに決まるという言い方ができます。

 

フレーゲは、こうした「命題」の構造を、関数の形式で書き表すという独創的な方法を導入しました。これが「記号論理学(現代論理学)」と呼ばれる論理です。

 

たとえば、「aはFである」という「命題」があったとします。

 

この「命題」を関数の形式で書き表すと、「Fa(aはFであると読む)」のようになります。

 

他の例を挙げると、たとえば、「aはbとRの関係にある」という「命題」があったとします。

 

この「命題」を関数の形式で書き表すと、「R(a,b)(aとbはRという関係にあると読む)」のようになります。

 

31.「命題論理」と「真理関数」

 

記号論理学(現代論理学)」は大きく「命題論理」と「述語論理」という2つの部門から成ります。

 

「命題論理」とは、「命題」と「命題」の間の推論関係を扱う構造であり、「述語論理」とは、「命題」の「内部構造」と「量」に関わる推論関係を扱う構造である。

 

というのが辞書的な説明なんですが、これでは分かりにくいにもほどがあります。

 

ですので、もう少しかみ砕いて説明したいと思います。

 

※以下の説明も『論理哲学論考(光文社 丘沢静也訳)』から借りています。

 

では、まず「命題論理」から説明します。

 

そもそも、「命題」は「要素命題」という最小単位から成り、「要素命題」は、「p、q、r…」といった「命題変項」によって表示されます。

 

そして、それらの「要素命題」を、「論理結合子」と呼ばれる接続詞を用いて、複合的な「命題」を形作ります。

 

「論理結合子」と聞くと難しげですが、具体的には「条件法(if~,then~)」「否定(not)」「連言(and)」「選言(or)」の4つがあります。

 

たとえば、「富士山(pと表記する)」と「日本一高い(qと表記する)」と「山(rと表記する)」という3つの「要素命題」を、「連言(and)」という「論理結合子」で接続すると、「富士山は日本一高い山である(pはqかつrである)」という1つの「命題」が生まれます。

 

ですが、いちいち「pはqかつrである」などど書くのは、煩雑でそもそも数学的表現ではありませんよね。

 

そのため、フレーゲは「論理記号」と呼ばれる記号を用いることで表現を簡素にしました(高校数学で学んだ集合記号の多くがそれに当たります)。

 

人によって記法は異なることもあるのですが、ここではウィトゲンシュタインの記法に従っておきます。

 

先ほどの「論理結合子」は…

 

「条件法(if~,then~)」は「p⊃q(pならばq)

「否定(not)」は「~p(pでない)

「連言(and)」は「p.q(pかつq)

「選言(or)」は「p∨q(pまたはq)

 

といった「論理記号」で書き表されます。

 

これらの「論理結合子」の最大の特徴は、それを用いて作られた「命題」の「真理値」が、「要素命題」の「真理値」に応じて一義的に決定されるということです。

 

※「真理値」については30を参照してください。

 

たとえば、「p.q(pかつq)」という「命題」の「真理値」は、「要素命題」の「p」と「q」が共に真である時にのみ真となり、それ以外の場合には偽となります。

 

このように、部分部分となっている「要素命題」の「真理値」から全体の「真理値」を決定するという「論理結合子」の働きを「真理関数」と呼びます。

 

「要素命題」の「真理値」を入力すると、それらから成る「命題」の「真理値」が出力されるというイメージを持てば、「関数」と銘打ってあることにも納得がいくと思います。

 

32.「真理関数」の例外

 

31で述べた通り、「命題」は「要素命題」の「真理値」によって一義的に「真理値」が定まるという「真理関数」の働きを持っています。

 

しかし、「命題」の中には、2種類だけ特別な性質をもった「命題」が存在します。

 

それが、「トートロジー(恒真命題)」と「矛盾命題(恒偽命題)」です。

 

「矛盾命題(恒偽命題)」は説明するまでもないでしょう。

 

その名の通り、「要素命題」の「真理値」が何であれ、「命題」全体としては必ず「矛盾」を導く「命題」です。

 

具体例を挙げると、「p・~p(pかつpでない)」などの「命題」が「矛盾命題(恒偽命題)」となります。

 

では、「トートロジー(恒真命題)」とは何でしょうか。

 

日本語では「同語反復」と訳されますが、意外と日常的に使われてるかもしれませんね。

 

つまり、「要素命題」の「真理値」が何であれ、「命題」全体としては必ず「真」を導く「命題」です。

 

具体例を挙げると、「p∨~p(pまたはpでない)」などの「命題」が「トートロジー(恒真命題)」となります。

 

そうです。「世の中には2種類の人間がいる!~する人間と~しない人間だ!」っていうやつですね。

 

このトートロジー(恒真命題)」という概念を確立したことが「論理学革命」におけるウィトゲンシュタインの最大の功績なのですが、どういった意味で最大の功績なのかはこの後で説明することにします。

 

33.「述語論理」

 

31では説明しなかった、もう1つの「述語論理」について説明します。

 

「述語論理」とは、4つの「論理結合子」から成る「命題論理」の体系に、さらに2つの「量記号」を付けくわえたものです。

 

すべての(all)」を表す「普遍量記号(∀と表記する)」と、「いくつかの(some)」を表す「存在量記号(∃と表記する)」が「量記号」に当たります。

 

そこにさらに「対象」を表す「定項(a、b、c…と表記する)」と「変項(x、y、z…と表記する)」と、「性質」や「関係」を表す「述語記号(F、G、H…と表記する)」を付け加えることによって、あらゆる「命題」を分節化して表示することが可能になります。

 

たとえば、「すべてのxはFである」という「命題」は、「(∀x)Fx」と書き表され、「あるxはGである」という「命題」は、「(∃x)Gx」と書き表されます。

 

「述語論理」とは、こうして「命題」を分節化して表示するわけですが、それがどういったメリットを持つのでしょうか。

 

34.「伝統的論理学」と「記号論理学(現代論理学)」の違い

 

「命題論理」と「述語論理」を用いて関数の形式で書き表す「記号論理学(現代論理学)」と、ひたすらに「三段論法」を用いる「伝統的論理学」の違いはどこにあるのでしょうか。

 

ごく普通の「命題」を考える場合には、正直に言いまして、どちらの「論理学」を採用しようとも大差ありません。

 

ですが、中には「伝統的論理学」では対処しきれない「命題」が存在します。

 

ここで、「丸い四角形は存在しない」という「命題」を例に挙げて考えてみましょう。

 

【「伝統的論理学」を採用した場合】

 

「伝統的論理学」では「名辞(term)」を基本単位としています。

 

 つまり、「丸い四角形は存在しない」という明らかに真な「命題」を、「主語概念」と「述語概念」に分けて議論します。

 

「述語概念」はもちろん「存在しない」ということですが、「主語概念」はどうなるでしょうか。

 

あえて考えるとしたら、「丸い四角形」が「主語概念」になってしまいます。

 

ですが、「丸い四角形」なんてものはそもそも存在しない(というか思い描けない)ので、この場合、「主語概念」が指し示す「対象」が存在しないということになってしまいます。

 

よって、「伝統的論理学」の立場に立つと、「丸い四角形は存在しない」という「命題」は「ナンセンス」であるという結論が導かれます。

 

「丸い四角形は存在しない」という「命題」は誰がどう見ても「真」であることは明らかであるにも関わらず…です。

 

こうなると、「伝統的論理学」だと矛盾というかミスが生じてしまうことになりますよね。

 

【「記号論理学(現代論理学)」を採用した場合】

 

一方の、「記号論理学(現代論理学)」では、「命題(proposition)」を基本単位としています。

 

よって、「丸い四角形」という「主語概念」と「存在しない」という「述語概念」に分けるのまでは「伝統的論理学」と同じですが、「記号論理学(現代論理学)」では、「丸い四角形」を更に、「丸い」と「四角い」という「述語」の組み合わせに分けるのです。

 

つまり、「丸い」を「R」と表記し、「四角い」を「S」と表記することとすると、「丸い四角形は存在しない」という「命題」は、「(∃x)(Rx.Sx)」と表現されます。

 

こう表現すれば、この「命題」は明らかに「真」である存在否定命題に他なりませんし、「伝統的論理学」でネックとなった「主語概念」の指示対象が消去されています

 

したがって、「記号論理学(現代論理学)」の方が汎用的であり有用であるということがお分かりいただけたと思います。

 

35.『論考』の中盤の意図

 

34で述べた通り、「伝統的論理学」が踏襲した「主語ー述語」という文法形式は、「記号論理学(現代論理学)」において「論理形式」に置き換えられています。

 

こうして、見かけの文法構造に惑わされることなく、正しい「論理形式」を明らかにすることが、ウィトゲンシュタインの目的の1つでした。

 

それは、ひいては、従来の「伝統的論理学」に基づいた哲学の諸問題を根本から見つめ直すということにもつながり、既成の伝統的な哲学の諸概念を根底から変革することになります。

 

ウィトゲンシュタインはその目的を達成するために、「記号論理学(現代論理学)」という武器を手に取り、「論理学」的に世界像を新たに構築しようとしたといえるでしょう。

 

それでは、また逢う日まで…

 

(追記)

次回は『アマカノ~perfect Edition~』について書きたいと思います。

 

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