エロゲ備忘録~徒然なるままに~

アメーバにて受験生ブログを書いていた元浪人生です。勉強もせずエロゲばかりやっていました。エロゲの感想や個人的批評でも書きます。あくまで備忘録に過ぎませんので比較的薄っぺらい内容の話しかしませんのであしからず…。(2017年追記 〇都大学法学部に合格いたしました)

amazarashiへの考察『0.6』(13218文字)【amazarashi】【0.6】【考察】

今回からまた新たなシリーズを始めさせてください。

 

前回の次回予告ではアマカノとなっていましたが、まだ1ルート残っているので、もう少ししたら書きたいと思っています。

 

このブログとは別に書いてたアメブロの受験生ブログのほうでは、たびたび書いていた話題なのですが、こちらのブログでも書きたくなったので書かせてください。

 

そのテーマというのが、「amazarashi」というロックバンドについてです。

 

www.amazarashi.com

 

まず、「amazarashi」がどういうバンドなのかを説明しなくてはなりませんね。

 

  amazarashi(アマザラシ)は、日本のロックバンド。ソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズ所属。青森県で結成された。バンド名は「日常に降りかかる悲しみや苦しみを雨に例え、僕らは雨曝しだが“それでもというところを歌いたい」から名付けられた。(wikiより引用)

 

  青森県在住の秋田ひろむを中心とするバンド。日常に降りかかる悲しみや苦しみを雨に例え、僕らは雨曝だが「それでも」というところから名づけられたこのバンドは、「アンチニヒリズム」をコンセプトに掲げ、絶望の中から希望を見出す辛辣な詩世界を持ち、前編スクリーンをステージ前に張ったままタイポグラフィーと映像を映し出し行われる独自のライブを展開する。3DCGアニメーションを使ったMVは文化庁メディア芸術祭で優秀賞を受賞するなど国内外で高く評価されている。また、リリースされるCDには楽曲と同タイトルの詩が付属されている。(公式サイトより引用)

 

手頃な説明文を引っ張ってきたら、以上のようになりました。

 

僕個人が感じ取ったamazarashiの印象は、「日常に降りかかる苦しみや悲しみに降られながらも、同じ”絶望”に立つ人たちと同じ場所から”それでも”と絶えずメッセージを送り続けるバンド」といった印象です。

 

そのため、amazarashiの楽曲には、かなり暗い曲が多いですし、歌詞も痛烈なものがたくさんあります。

 

ですが、そこには確かな強いプラスの意志が込められています。

 

ただ歌詞(言葉)によって直接的に応援するのではなく、聴く人と同じ立場に立ち、同じものを見て、同じ感情を抱き、「それでも」と応援し続けるのです。

 

他のアーティストたちが「陽の応援」であるとすれば、さながらamazarashiは「陰の応援」と言えるでしょう。

 

ですが、それが、直接的なメッセージよりも心に響くことがしばしばあります。

 

そのためなのかどうかは定かではありませんが、自らが顔を出すことをNGとしており、ライブでも、スクリーンに映像を投影?する形で、直接顔を出すことはありません。

 

こう考えると、かなり特殊なバンドかもしれません。

 

そのため一般への知名度も低く(最近は増しつつある)、あまり多くの人に知られていないというのが現状です…

 

でも…僕個人としては知名度は低いままでいいと思います。

 

amazarashiが世間すべてに広まったら、それはある意味「最悪の結末」なのではないかと思うわけです…

 

それがなぜなのかは…amazarashiの曲たちを紹介していく中で追々感じられるのではないかと思います…

 

では、本題に入り、今回から不定期にamazarashiの曲たちを紹介していき、必要に応じて僕なりの考察も交えたいと思います。

 

順不同ですが、一応は古い順に説明していくつもりです。

 

では、記念すべき第1回目となる今回は、初の全国版アルバムとなった「0.6」について、紹介していきたいと思います。

 

0.6

0.6

 

 

※収録されている全曲を紹介するわけではありません。あくまで僕個人が厳選した数曲についてです。独断と偏見に基づいておりますが、あしからず…

 

※考察部分の語尾は、ですます調にしていませんが、特に意味はありません。

  

~目次~

・光、再考(歌詞・詩・考察)

・つじつま合わせに生まれた僕等(歌詞・考察)

・ムカデ(歌詞・詩・考察)

よだかの星(歌詞・紹介)

 

光、再考


amazarashi's "Hikari, saikou" eng translation

もし生まれ変わったらなんて言いたくない どうしようもない
僕の人生も長い付き合いの内 愛しくなってくるもんで
ぶつかって 転がって 汗握って 必死こいて
手にしたものは この愛着だけかもな まぁいいか
そんな光
 
時々虚しくなって全部消えてしまえばいいと思うんだ
神様なんてとうの昔に阿佐ヶ谷のボロアパートで首吊った
綺麗な星座の下で 彼女とキスをして
消えたのは 思い出と自殺願望
そんな光

朝が来るたび陰鬱とした気持ちでそれでも青い空が好きなんだ
公園ではしゃぐ子供達と新聞紙被って寝てる家の無い人
未来は明るいよ 明るいよ
くしゃみを一つしたら 大勢の鳩が 大空へ飛び立った
どこへ行けばいいんですか 行きたいとこへ勝手に行けよ
何をすればいいんですか 僕は誰に尋ねてるんだろう
何か始めようと震えてる ジャングルジムの影が長くなって
僕は今から出かけるよ ここじゃないどこか
そんな光

彼女が歓楽街でバイトをはじめて夜は一人になった
特に寂しくは無いけど急にテレビ番組が好きになった
朝彼女が戻って 僕が部屋を出て行く
無垢に笑う彼女が本当に綺麗だと思った
そんな光

子供の頃の影踏み遊びを思い出してる 追いかけても
決して掴めない物 まるで蜃気楼 だけど僕は気付いてる
本当は手にしたくなんか無いんだよ ずっと追いかけていたいんだよ
もっと胸を焦がしてよ 死ぬまで走り続けたいんだよ
流れ流れて明日は東へ 出会いと別れを繰り返して
光と陰を股にかけて 泣き笑いを行ったりきたり
そうだよ 大丈夫 大丈夫 皆同じだよ
上手くいかない時は誰にでもあるよ
そんな光

日が沈みまた昇るように 花が散りまた咲くみたいに
全てはめぐりめぐって 全てがほら元通り
もし生まれ変わったらなんて 二度と言わないで
今君は日陰の中にいるだけ ただそれだけ
 
amazarashi 光、再考

 

この曲をトップバッターにすることは「最善」で「必然」でしょう。

 

ありきたりすぎて私たちがもはや意識さえしなくなった絶望…そんな日常に潜む絶望の中で、一瞬だけ差し込む「光」を歌った曲です。

 

歌詞から最初に受ける印象はとても暗めでしょうね。ですが、そこには確かに希望の「光」があるのです。

 

この曲は特に大好きな曲ですので、僕なりの考察も書いておきたいと思います。

 

あ!言い忘れましたが、amazarashiの曲には、すべての曲に必ず1つ「詩」がつけられています。

 

ヴォーカルの秋田ひろむ氏自らが書いた詩です。

 

僕は主に、歌詞とこの詩を参考にして考察しています。

 

ですので、考察を書く曲に関しては、同じように付け加えられた詩も一緒に書いておきたいと思います。

 

絶望とは、暗闇ではなく

暗闇の中で、手を伸ばすこともできない事

 

希望とは、手を伸ばす事ではなく

暗闇の中でも、触れたい何かがあるという事

 

触れたいものなどない、というのなら

そもそも君が、絶望する事もなかっただろう

絶望なんて、手を伸ばした人だけに訪れる

通り雨みたいなものだから

 

君の肩が濡れているのは

むしろ誇っていい

どうしようもない今日も

笑えなかった昨日も

君が何かを掴もうと、手を伸ばした証拠なんだ

 

一度も旅に出ようとしない、傷一つない船に

誰が乗りたがるだろうか

この先起こる嵐を乗り越えるために

痛みを知っている君でなければいけない

 

だから

「もし生まれ変わったら」なんて言わないで

 

amazarashi 光、再考 詩

 

では、上の詩と歌詞を参照した、僕なりの考察を書きたいと思います。

 

もし生まれ変わったらなんて言いたくない

どうしようもない僕の人生も長い付き合いの内

愛しくなってくるもんで ぶつかって 転がって

汗握って 必死こいて

手にしたものは この愛着だけかもな

まぁいいか そんな光

 

「もし生まれ変わったらなんて言いたくない」で始まるこの曲は、日常に潜む「絶望」を描いている。

 

「絶望」とは言っても、それは言葉通りの「絶望」ではない。

 

終戦から70年以上となった今や、私たちの「絶望」に対する敷居は低くなった。というより、「死」と結びつかなくなった。

 

その昔(昔とは言っても100年もないが)、「絶望」はそのまま「死」と結びついていただろう。

 

だが、それは現代の人々の「絶望」が消えたことを意味しない。

 

彼らの「絶望」はそのまま日常に潜むものへとシフトした。

 

それを象徴するのが、この曲に出てくる「男」の人生だろう。

 

どうしようもない彼の人生、それでも彼をこの世に結びつけているのは、もはや過去への「愛着」でしかない。

 

時々虚しくなって 全部消えてしまえばいい

と思うんだ 神様なんてとうの昔に

阿佐ヶ谷のボロアパートで首吊った

綺麗な星座の下で 彼女とキスをして

消えたのは 思い出と自殺願望

そんな光

 

現代に生きる「彼」にとって、もはや「神」は単なる宗教上の形而上的存在に過ぎず、何の希望にもなりやしない。

 

そんな「彼」の「絶望」を癒してくれるのは、一緒に暮らしている彼女だけ。「彼」の一筋の希望、すなわち「光」だった。

 

朝が来るたび 陰鬱とした気持ちで

それでも青い空が好きなんだ

公園ではしゃぐ子供たちと

新聞紙被って寝てる家の無い人

未来は明るいよ 明るいよ

くしゃみを1つしたら 大勢の鳩が

大空へ飛び立った

 

どこへ行けばいいんですか

行きたいとこへ勝手に行けよ

何をすればいいんですか

僕は誰に尋ねてるんだろう

何か始めようと震えてる

ジャングルジムの影が長くなって

僕は今から出かけるよ ここじゃないどこか

そんな光

 

朝が来るたび、陰鬱とした気分にさせられる。

 

それでも、この青い空を見上げるのは大好きだ。陰鬱な地上とは裏腹に、青い空には「彼」には見られない希望があるかもしれない。

 

だから「彼」は公園で遊ぶ子供たちにも、新聞紙を被って寝ているホームレスにも、「未来は明るいよ」と語る。

 

だが、これは同時に「皮肉」でもある。

 

「未来は明るいよ」そう言い聞かせることによってでしか安心を得られない「彼」が、自分自身に言い聞かせている言葉でもあるだろう。

 

そんな即席の「希望」はもちろん脆い。

 

だから、「彼」はすぐ後に「どこへ行けばいいんですか」と問いかける。だが、返ってくる言葉はない。

 

それでも、「彼」は「ここじゃないどこか」を目指して歩き続ける。

 

それが「彼」の一筋の「希望」だった。

 

彼女が歓楽街でバイトを始めて

夜は一人になった 特に寂しくはないけど

急にテレビ番組が好きになった

朝彼女が戻って 僕が部屋を出ていく

無垢に笑う彼女が 本当にきれいだと思った

そんな光 

 

「彼」はおそらくそれほど稼ぎがいいわけではないのだろう。

 

だから、彼女も歓楽街で夜のバイトを始めるしかない。

 

「彼」は寂しくないと思いつつも、テレビ番組が急に好きになった。

 

だが、本当に寂しくない人は急にテレビ番組を好きになったりなどしないだろう。

 

「彼」は明らかに寂しさを抱き、ひいては彼女を存分に養えない自分の情けなさを憂いていたのかもしれない。

 

子供のころの影踏み遊びを思い出してる

追いかけても 決して掴めないもの

まるで蜃気楼 だけど僕は気づいてる

本当は手にしたくなんかないんだよ

ずっと追いかけていたいんだよ

もっと胸を焦がしてよ

死ぬまで走り続けたいんだよ

 

「彼」を支えていたのは過去への「愛着」だけだった。

 

でも、その過去はすでに過ぎ去ったものであり、追いかけても決して掴めない。まるで蜃気楼のように。

 

「彼」もそれには気づいていたのだろう。

 

日が沈み また昇るように

花が散り また咲くみたいに

全ては巡り巡って 全てがほら元通り

もし生まれ変わったらなんて

二度と言わないで

今君は日陰の中にいるだけ

ただ それだけ

 

太陽が沈みまた昇るように、花が散りまた咲くように、「彼」を含めた全てのものは巡り巡って元通りになる。

 

だから、「彼」の「過去」は確かに戻りはしないけれども、同じ希望をこれから見出すことはきっとできる。

 

もし生まれ変わったらなんて言ってしまったら、その因果の鎖から抜け出すことになってしまう。

 

不幸があればいつか幸せがやってくるように、「彼」にもこれから希望がやってくるかもしれないのに、その可能性をみすみす棒に振って生まれ変わることがどうして正しい選択と言えようか。

 

「彼」は今、日陰の中にいるだけに過ぎない。

 

だから、「彼」は日陰の中から出る。そして自ら、差し込む「光」へと進む。「過去」を追憶するのはもうやめだ。

 

「絶望」とは、暗闇の中にいることではない。その暗闇の中で、手を伸ばすことすらできないことだ。

 

「希望」とは、手を伸ばすことではない。暗闇の中にあっても、手を伸ばして触れたい何かがあるということだ。

 

暗闇の中にいることは「絶望」ではない。そこで手を伸ばそうとおもえるかどうかが「絶望」かどうかを決めるのだ。

 

だから、「彼」は手を伸ばす事を選んだ。

 

「光」の差し込む方へと進むことを選んだ。

 

つじつま合わせに生まれた僕等


つじつま合わせに生まれた僕等

遠い国の山のふもと この世で一番綺麗な水が湧いた

やがてそれは川になり そこに群れを作った魚を

腹を空かした熊が食べて 猟師が熊の皮をはいで

それを市場で売りさばいて 娘のために買った髪飾り

悪い人間がやってきて 全部奪ってしまったのは

歴史のちょうど真ん中あたり 神様も赤ん坊の時代

母親のこぼした涙が 焼けた匂いの土に染みて

それを太陽が焦がして 蒸発してできた黒い雨雲

 

その雲は海を越えた砂漠に 5か月ぶりの雨を降らせた

雨水を飲んで生き延びた詩人が 祖国に帰って歌った詩

それを口ずさんだ子供たちが 前線に駆り出される頃

頭を吹き飛ばされた少女が 誰にも知られず土に還る

 

そこに育った大きな木が 切り倒されて街ができて

黒い煙が空に昇る頃 汚れた顔で僕等生まれた

善意で殺される人 悪意で飯にありつける人

傍観して救われた命 つじつま合わせに生まれた僕等

 

高層ビルに磔の 価値観は血の涙を流す

消費が美徳の人間が こぞって石を投げつけるから

金にもならない絵を描いた 絵描きは筆をへし折られて

見栄っ張りで満員の電車が 走る高架下で暮らしている

喜怒哀楽をカテゴライズ 人に合わせて歌ができて

悲しい時はこの歌を 寂しい奴はあの歌を

騙されねーと疑いだして 全部が怪しく見えてきて

人を信じられなくなったら 立派な病気にカテゴライズ

 

不健康な心が飢えて 悲劇をもっとと叫んでいる

大義名分ができた他人が やましさもなく断罪する

人殺しと誰かの不倫と 宗教と流行の店と

いじめと夜9時のドラマと 戦争とヒットチャートと

 

誰もが転がる石なのに みんなが特別だと思うから

選ばれなかった少年は ナイフを握りしめて立ってた

匿名を決め込む駅前の 雑踏が真っ赤に染まったのは

夕焼け空がきれいだから つじつま合わせに生まれた僕等

 

ふざけた歴史のどん詰まりで 僕等いまだにもがいている

結局何もわからずに 許すとか 許されないとか

死刑になった犯罪者も 聖者の振りした悪人も

罪深い君も僕も いつか土に還ったとき

 

その上に花が咲くなら それだけで報われる世界

そこで人が愛し合うなら それだけで価値のある世界

だからせめて人を愛して 一生かけて愛してよ

このろくでもない世界で つじつま合わせに生まれた僕等

 

amazarahi つじつま合わせに生まれた僕等

 

この「つじつま合わせに生まれた僕等」は「光、再考」とは対照的に「死」と密接に結びついた退廃的な悲しみをテーマにしているといえるだろう。

 

悪い人間がやってきて 全部奪ってしまったのは

歴史のちょうど真ん中辺り 神様も赤ん坊の時代

母親のこぼした涙が 焼けた匂いの土に染みて

それを太陽が焦がして 蒸発してできた黒い雨雲

 

善意で殺される人 悪意で飯にありつける人

傍観して救われた命 つじつま合わせに生まれた僕等

 

「遠い国の山のふもと この世で一番綺麗な水が湧いた~傍観して救われた命 つじつま合わせに生まれた僕等」の一番の部分は、一貫した一つのストーリーを表している。

 

山の湧水、その水場に群生する魚、その魚を食べた熊、その熊を売りさばいた猟師、その猟師が娘に買った髪飾り…

 

これらはすべて当然の流れであり、いわば自然界の常識だ。

 

だが、この当然の輪廻は崩れ去ってしまう。

 

歌詞の中では「悪い人間」となっているが、この「悪い」はどこに係るのだろうか。

 

思うに、この「悪い」は特定の人間にではなく、「人間という種全体」に係る。

 

※「人類最後の解決法が戦争だけなら、進化論もあてにはならなかったみたいだ」と、秋田ひろむは「多数決」という曲で歌っています。

 

今こうして私たちが生きている瞬間にも、子供たちが前線に駆り出され、頭を吹き飛ばされた少女のように無残に死んでいっている。

 

そこにあるのは、ただ戦争による死者だけではない。

 

善意で殺される人、悪意で飯にありつける人、傍観して救われた人もある。そして、もちろん、私たちもある。

 

不健康な心が飢えて 悲劇をもっとと叫んでいる

大義名分ができた他人が やましさもなく断罪する

 

そんな、彼らの不幸を招いたのは誰なのだろうか。

 

戦争を決めた権力者たちか?

実際に引き金を引いた人たちか?

 

思うに、その答えは特定化できるものではない。

 

だが、強いて犯人を挙げるとすれば、それはこの「世界」そのものだろう。

 

なぜ戦争が止まないのか…これは永遠の課題であるとともに、誰もが一度は考える問題だろう。

 

この曲から感じ取れた秋田ひろむの答えはこうだ。

 

この世界は、そもそも、ある因果に基づいている。

 

それは、いわば「当番制度の世界」だ。

 

誰かが幸せである時、その埋め合わせをするかのように、どこかの誰かが不幸でいる。

 

誰かが笑っているとき、その埋め合わせをするかのように、どこかの誰かが泣いている。

 

この世界に存在するすべての存在は、例外なく何かの「当番」に割り当てられている。

 

それが「争いのない当番」なのか、「争いのある当番」なのかどうかが、今の私たちと戦争に駆り出される彼らを分けているのだ。

 

つまり、私たちは、この世界を成り立たせる歯車として存在するだけであり、「つじつま合わせに生まれた」に過ぎないのだ。

 

なんと、希望のない答えだろうか。

 

誰もが転がる石なのに みんなが特別だと思うから

選ばれなかった少年は ナイフを握り締めて立ってた

匿名を決め込む駅前の 雑踏が真っ赤に染まったのは

夕焼け空が綺麗だから つじつま合わせに生まれた僕等

 

この部分など、まさに矛盾だらけの世界の象徴ではないだろうか。

 

誰もが路傍の石のように、等しく些少な存在にすぎないのに、みんながみんな自分を特別だと思う。

 

だから、必ずあふれてしまった人間が出てしまう。

 

そんなあふれた少年がナイフを握り締めて、駅前を真っ赤に染め上げる。そして、その理由は「夕焼け空がきれいだから」…

 

この部分は、カミュ『異邦人』を思い起こさせる。

 

『異邦人』の中で殺人を起こした人物は、殺人を犯した理由を聞かれた際、「それは太陽のせいだ」と答えた。

 

なんだかわからない理由で世界から拒絶された少年は、同じようになんだかわからない理由で匿名を決め込む雑踏を真っ赤に染め上げたのだ。

 

死刑になった犯罪者も 聖者の振りした悪人も

罪深い君も僕も いつか土に還ったとき

 

その上に花が咲くなら それだけで報われる世界

そこで人が愛し合うなら それだけで価値のある世界

だからせめて人を愛して 一生かけて愛してよ

このろくでもない世界で つじつま合わせに生まれた僕等

 

だが、絶望だけで終わらないのがamazarashiだ。

 

最後の部分では、この「当番制」のふざけた世界にも希望はある、と歌っている。

 

死刑になった犯罪者も、聖者の振りした悪人も、そして、もちろん私たちも、いつか必ず土に還る(死ぬ)。

 

だが、それは悲しみの始まりではない。

 

その上に花が咲き、そこで人が愛し合うなら、それだけで報われ、価値のある世界と変貌する。

 

つまり、誰かの「死」を、その後に誰かが憂い、誰かの「希望・未来・愛」へとつながれば、それは悲しみの始まりから希望の始まりへと変貌する。

 

たとえ、この世界が不条理に満ち溢れていようとも、誰かの「死」を誰かの「希望・未来・愛」へと変えていけさえすれば、それは価値のある世界となる。

 

だから、まだ死んでいない生きている私たちは、一生かけてせめて人を愛すべきである。それが後に誰かの「希望・未来・愛」へとつながることを信じて。

 

日々、何かを殺さなくては生きていけないという重みに耐えながら、生きていくしかないのだ。

 

ムカデ


『ムカデ / Mukade』 - amazarashi 【accoustic live ver】 ENGLISH+日本語 SUB

給水塔に反射する夏の太陽 器用に生きる象徴としての彼女の笑顔

汗ばんだ静動脈に巣食う褐色の火薬じみた病理

僕が僕ではない感覚 もしくは錯覚 六十億の溜息に巻き起こる黄砂

逃げ場なく息も絶え絶えな ムカデ 涙の濁流を這って何処へ行こう

何処も駄目だ 居場所が無い 神様僕は分かってしまった

空っぽの夜空が綺麗 あの黒い空白に埋もれてしまえたらって

願う そうか もしかしたら 僕は 死にたいのかな

 

愛は愛の振りして全部飲み下せと刃物覗かせる

今日は今日の振りして全部やり直しだと僕を脅かす

こっから踏み出すなよ 絶対だぞ 誰だ後ろから押す奴は

ほらあと一歩だ そうだ 夢がぶら下がる最果ての絞首台

 

西日に染まる郊外の公団住宅 心臓を針でつつかれるような感傷

及び 生きてる事に対しての罪悪感 付きまとう闇 立ちはだかる闇

赤面症の季節における リビドーの肥大 故の 現実からの逃避

妄想 妄想 妄想 遮断機に置き去りの自意識 真っ二つに割れる数秒前

赤が光る 消える 光る 消える 光る 消える 消えろ

チャイナドレスの女 田園都市線 劣等 劣等 過去 過去

全部消えろ 神様 殺してやる

 

過去は過去の振りして全部受け入れろとのどに締めかかる

夜は夜の振りして全部お前のせいだとがなりたてる

こっから逃げ出すなよ 絶対だぞ 誰だ後ろから押す奴は

ほらあと一歩だ そうだ 夢がぶら下がる最果ての絞首台

 

僕は触れていたかった まだ繋がっていたいよ

ビルの屋上に立った 今更思い出すんだ

春の木漏れ日に泣いた 母の声が聞こえんだ

此処にいてもいいですか 此処にいてもいいですか

 

空は空の振りして全部知ってるぞって僕を見下す

人は人のふりして全部吐き出せと僕を睨み付ける

こっから踏み出すなよ 絶対だぞ 誰だ後ろから押す奴は

ほらあと一歩だ そうだ 夢がぶら下がる最果ての絞首台

 

僕は触れていたかった まだ繋がっていたいよ

ビルの屋上に立った 今更思い出すんだ

春の木漏れ日に泣いた 母の声が聞こえんだ

此処にいてもいいですか 生きていてもいいですか

 

amazarashi ムカデ

 

こちらは曲名を紹介するだけです。

 

考察が非常に難しく、僕自身、考えがまとまっていないので、考察を書くのは控えさせてもらいました。

 

上記のYouTubeリンクからぜひ聴いてみてください。

 

(2017年4月27日追記)

 

何となく考えがまとまったので、僕なりの考察を書きたいと思います。

 

その際に参考にした詩も一緒に載せておきますね。

 

醜い姿を嘆いては、流した涙の濁流で

息も絶え絶えなムカデ程の劣等感

十代のむせかえる草いきれを焼き付けた

薄っぺらいネガフィルム程の自己愛

 

そんなくだらない

何もかもを捨てて

逝きたい

 

「もう駄目だ」を「くだらねぇ」に摩り替える

世才を装った自堕落

倦怠の最中に夢想する

 

そんなくだらない

何もかもを捨てて

生きたい

 

死に場所を探している

つまり

生きる場所を探している

 

amazarashi ムカデ 詩

 

では、以下から僕なりの考察を書きたいと思います。

 

最初から重い伴奏が流れるこの「ムカデ」という曲ですが、上記の「光、再考」「つじつま合わせに生まれた僕等」に比べて、とても考察がしにくいです。

 

というのも、文章のつながりが推測しにくいんです。

 

一文一文の意味は何となく類推できても、それが次の文とどう関連しているのかが分からない…

 

それだけではありません。

 

この曲は、他の曲に比べると、強い言葉が多く使われているんです(「神様 殺してやる」「消えろ」など)。

 

それがどういう意味を成すのかも考察の対象になりうるでしょう。

 

給水塔に反射する夏の太陽 器用に生きる象徴としての彼女の笑顔

汗ばんだ静動脈に巣食う褐色の火薬じみた病理

僕が僕ではない感覚 もしくは錯覚 六十億の溜息に巻き起こる黄砂

逃げ場なく息も絶え絶えな ムカデ 涙の濁流を這って何処へ行こう

何処も駄目だ 居場所がない 神様僕は分かってしまった

空っぽの夜空が綺麗 あの黒い空白に埋もれてしまえたらって

願う そうか もしかしたら 僕は 死にたいのかな

 

主人公は、「僕」。

 

「僕」は自らに劣等感を抱いている。

 

器用に生きる彼女とは違い、「僕」は不器用で、自らを卑下しその劣等感の濁流にのみこまれている。

 

その劣等感は、自らの醜い姿を嘆き、自分が流した涙の濁流に流され、息も絶え絶えになっている「ムカデ」が抱くそれと同じ。

 

「僕」は、自己を愛する気持ちも些少だ。

 

その自己愛は、十代の頃のむせかえるような草いきれ(むっとした夏の熱気)を写した、薄っぺらいネガフィルム程度の小さい自己愛に過ぎない。

 

「僕」の生は、楽しかった(夢を持てていた、生を感じられていた)十代の夏の頃の思い出で止まってしまっていた。

 

だけど「僕」は足掻く。

 

「僕」は、涙の濁流の中を這いながら、向かうべきを何処か何処かと探す。

 

しかし、「僕」の居場所はない。

 

この世界は器用に生きられない人からどんどん切り捨てられていく。

 

それが「僕」には分かってしまった。神なんていないし、いたとしても「僕」のためには存在しないと。

 

それでも祈りくらいしか頼るものがない。だから「僕」は願うのだ。

 

願いなど空虚なものでしかないとわかりつつも、願いに縋るしかない。

 

しかし、その一方で、「生への執着」などの一切合切のくだらない何もかもを捨てて、逝きたい(死にたい)とも思っていた。

 

※この部分は、amazarashiの「ポルノ映画の看板の下で」という曲に、「願えば叶う」という言葉など真っ赤な嘘で妄言に過ぎないというメッセージが込められていることを鑑みて、僕なりに考察した結果です。

 

愛は愛の振りして全部飲み下せと刃物覗かせる

今日は今日の振りして全部やり直しだと僕を脅かす

こっから踏み出すなよ 絶対だぞ 誰だ後ろから押す奴は

ほらあと一歩だ そうだ 夢がぶら下がる最果ての絞首台

 

「愛」は、まるで押し売りのように「僕」に押し寄せてくる。

 

「お前だってきっと誰かに愛されてるはずだ。そうだろ?なぁ?」と言わんばかりに、中身のない「愛」を押し付けてくる。

 

まるで、それに頷かないなら刺すとでも言っているかのように、中身のない「愛」を押し付けてくる。

 

この世界は、もはや実体のない「愛」で満ち溢れている。

 

その証左として、世間にはきれいごとの「愛」ばかりを歌うラブソングがあふれかえっている。

 

一体、その中のどれだけの数の歌が、実際に、「愛」が飽和し切ったこの現状を歌えているというのだろうか。

 

「僕」に押し付けられている「愛」も同じだ。

 

「きっと君にも生きる意味はあるよ。」や「君のおかげで助かっている人もきっといるよ。」などとばかり言ってくる輩の言う「愛」にどれだけの中身があるというのか。

 

少なくとも「僕」の生きる意味を補完するには中身が不十分すぎる。

 

だから「僕」は絞首台に立った。

 

※別記事でウィトゲンシュタインについても書いていますが、彼も同じように生きる意味は世界の外側(思考の外側)に位置するため、生きる意味は「語り得ぬもの」であり、誰かの言葉によって確定するものでは到底あり得ないと言っています。

 

西日に染まる郊外の公団住宅 心臓を針でつつかれるような感傷

及び 生きてる事に対しての罪悪感 付きまとう闇 立ちはだかる闇

赤面症の季節における リビドーの肥大 故の 現実からの逃避

妄想 妄想 妄想

遮断機に置き去りの自意識 真っ二つに割れる数秒前

 

劣等 劣等 過去 過去 全部消えろ

神様 殺してやる

 

「僕」の劣等感は、次第に、生きていることに対する罪悪感にまで肥大していく。

 

それは現実逃避という形で外に現れ、妄想によって、「僕」は「僕」の思い描く人生を再構築しようと試みる。

 

しかし、その妄想の中の人生は、まるで遮断機に置き去りにされた自意識のように脆く儚い仮初めにすぎない。

 

だからすぐに真っ二つに割れてしまう。

 

そして肥大し切った罪悪感は、さらに変貌を続け、しまいには外界に対する憎悪へと変化する。

 

「全部消えろ」「神様殺してやる」と、宛先のいない怒りをぶつける。

 

僕は触れていたかった まだ繋がっていたいよ

ビルの屋上に立った 今更思い出すんだ

春の木漏れ日に泣いた 母の声が聞こえんだ

此処にいてもいいですか 此処にいてもいいですか

 

僕は触れていたかった まだ繋がっていたいよ

ビルの屋上に立った 今更思い出すんだ

春の木漏れ日に泣いた 母の声が聞こえんだ

此処にいてもいいですか 生きていてもいいですか

 

しかし、その宛先のいない怒りは、「生」に対する執着の裏返しでもあった。

 

絞首台に立った「僕」はあと一歩が踏み出せない。

 

「僕」を押しとどめていたのは紛れもない「僕」自身の生への執着だった。

 

「自分が嫌い」なのは、「自分を好きになってほしい」から。

「世界が嫌い」なのは、「世界を好きになりたい」から。

「死にたくなる」のは、「生きたい」から。

 

※「自分以外みんな死ねってのは、もう死にてぇってのと同義だ」と秋田ひろむは「しらふ」という曲で歌っています。

 

「死にたい」と思う「僕」は、それと同時に、「生きたい」とも思えていた。

 

だから、「僕」は「生きていてもいいですか」と問いかける。

 

「死に場所を探している」のは「生きる場所を探している」のと同義なのだから。

 

よだかの星


よだかの星/amazarashi

かぶとむしや、たくさんの羽虫が

毎晩僕に殺される

そしてそのただ一つの僕が

こんどは鷹に殺される

それがこんなにつらいのだ

僕はもう虫を食べないで

飢えて死のう

いや、その前にもう

鷹が僕を殺すだろう

いや、その前に

僕は遠くの遠くの空の向うに

行ってしまおう

 

amazarashi よだかの星

 

こちらも曲名を紹介するだけです。

 

というより、これは正確には「ポエトリー(詩)」です。

 

amazarashiの曲の中には、いくつか「ポエトリーリーディング」と呼ばれるものがあります。

 

つまり、自作の詩にリズムをつけて朗読した形の楽曲となっております。

 

これは僕の私見ですが、ポエトリーリーディングの曲の方が、他の普通の曲に比べて、秋田さんが伝えたいイメージがよりつかみにくいように思えます…

 

ですが、この「よだかの星」は比較的わかりやすいです。

 

というのも、その名の通り、宮沢賢治の『よだかの星』からインスピレーションを受けているからです。

 

よだかの星』は、簡単に言うと、鷹に命を狙われたよだかが、死が差し迫る中、鷹が自分を殺そうとしているように、自分も虫たちを殺してきたのだと自覚し、たくさんの命を奪ってきた自分を嫌悪し、辛くてたまらなくなり、最後にはカシオペア座の隣で青く光る星になったのでした…というお話です。

 

似たような話に、同じく宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』がありますね。

 

あの話の中でもサソリが、死が差し迫る中、自分が多くの命を奪ってきたことに気づき、罪悪感を感じ、死んでから誰かの幸せになることを願って、さそり座のアンタレスとして赤く燃え上がったのでした。

 

話を戻しますと、amazarashiの「よだかの星」も、そのようなことを歌っています。

 

ぜひ聴いてみてください。

 

それでは、また逢う日まで…

 

(追記)

次回こそは「アマカノ~perfect edhition~」について書きます。

 

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