論理哲学論考を読んで⑥~最終回~(11858文字)【ウィトゲンシュタイン】【論理哲学論考】
(注意)
今回は最初に自分語りをしています。
『論考』なんて興味ねぇよって方も最初だけでも読んでって下さい。
今まで5回に渡って『論考』について書いてきましたが、今回で『論考』の話題は最後にしたいと思います。
今まで『論考』について書いてきましたが…
正直こんなことしなくてもすばひびもサクラノ詩も楽しめると思います。
すばひびの中で『論考』が強く関わっている所は
「序章」「第6章」「エピローグ」
でしょう。
(まぁ1章や2章や4章にも見られますが)
別に僕はすばひびの考察がしたいから『論考』なんて読んだわけではありません。
そもそも、当時浪人生だった僕がわざわざ『論考』なんて選ぶわけもありません。
高校倫理の範囲であれば、僕にも「知ってる」と言える哲学者は一定数いましたが、その中からウィトゲンシュタインを選ぶ人がどれだけいるでしょうか。
読むとしてももっと親しみやすいものを選ぶと思います。
パースとかデューイのプラグマティズムだったり…
哲学に拘らなければ、社会学だって馴染みやすいですし。
では、なんで僕が『論考』なんてものを読もうと思ったか…
それは単に、すばひびとサクラノ詩をやってしまったからです。
別に考察なんてしたくもありませんし、所詮ゲームです。
ゲームなんてものはただプレイして楽しめればいいのです。
プレイ後に考える義務なんて当然ありません。
ですが、当時の僕は暇すぎました。
受験勉強にも飽きがきて、ただ時間を潰せるものが欲しかったんです。
だから『論考』なんてものを読もうと思っただけです。
そもそも『論考』の言ってることはめちゃくちゃです。
さっきも書きましたが、親しみやすさなんてこれっぽっちもありません。
世界は、そうであることのすべてである…(`・ω・´)キリッ‼
何言ってんだコイツって感じですよ。
哲学は自分を教化する学問だとか言われますけど、その意味で言えばウィトゲンシュタインの考えなんて全く役に立ちませんよ。
それこそプラグマティズムだったりを学んだ方がよっぽど実用的(プラグマティズムだけに)じゃないですか?
上手く言えませんが、僕がこんなのを読み始めたのはただの暇つぶしです。
すばひびとサクラノ詩がその契機になっただけであって、別にこれこそわが生涯を賭して考え抜くべき主題である!なんて考えていません。
哲学好きなんて客観的に見てイタイですし。
ただどうせなら、その暇つぶしを完遂してやろうかな…と思い立っただけです。
だから最後まで書かせてください。
『論考』なんて読んでもほとんど意味不明ですし、解説書だって著者によって書いてることバラバラです。
それでも僕は僕なりの考えを残したい。
時が経って振り返ってみると、この解釈は間違ってたな…とか思うかもしれません(いや、おそらく思うでしょう)が、それでも当時の僕の考えだとして残したい。
癖なんですよね。
僕は昔から、頭に思ったことは何でも紙とかに書き残しておかないと気が済まない質でして…
それがただブログという媒体だっただけです。
だから読み手なんていなくてもいい。
僕が読めればいい。
それでいい。
極論は…ね。
もちろん読んでほしい気持ちもあります。
唯一読んでほしいなぁと思う相手は、僕にとっては1人だけです…
その人が読んでくれることを祈って書いています…
その人は本当に僕と感性が良く似ていました。
やることがなくて勉強しかしていなかった僕のつまらない学生時代とは対照的に、彼が大学に入ってから見つけたやりたいことは輝かしかった…
僕は彼のその行動力が本当に羨ましいと思うと同時に、彼を尊敬します。
僕は京大に入りました。
受験生時代は確かに京大に入りたかった。
でも、入った今となってはそれがなぜだったのか分かりません。
やりたいことなんてなかったのかもしれません。
僕には高校時代、友人が1人もいませんでした。
体育祭があれば、どの競技にも参加できず、学校のトイレの個室で丸一日過ごす…
文化祭があれば、内輪にも入れずお祭りムードの校内をただ1人徘徊する…
そんな、充実とは程遠い学生生活を送っていました。
卒業式の日に前の席に座ってたやつに言われたことが未だに頭から離れません。
「生きてて、楽しいか?」
その時の僕は苦笑いをして適当にその場から離れました。
卒業式の日でしたので当然会うのはそれで最後になったわけですが、僕はその
言葉が忘れられません。
その日、帰った後に、僕は1人涙を湛えました…
だからこそ僕は、今なお自分のやりたいことを見つけて夢を追うその人を応援したい。
その人は本当にすごいです…僕なんかとは違う…
世間体なんか気にしないで、自分のやりたいことを見つけてそれに邁進できる。
それは立派な才能です。
僕はいつかその人みたいになりたいのです。
自分の好きなことを見つけたい。
自分の好きなことをやりたい。
誰かの人生を変えられる人間になりたい。
そんなことを考えてた時にすばひび、サクラノ詩、そして『論考』に出会いました。
だから僕が『論考』を読んだのは、流れ的にそうなっただけです。
別に読解してやろうなんて思っていません。
ただそれを書き残しておきたい。そう思っただけです。
そして、これを僕が尊敬するその人が読んで、同じ考えを共有したい。
ただそれだけの思いで今まで『論考』なんてものを読んできました。
『草稿』はネットにテキストが載せられていたので目を通しましたが、『反哲学的断章』は断片的にしか読んでいませんし、後期ウィトゲンシュタインの『哲学探究』は全く読んでいません。
ですので僕の理解は、理解としては不十分だということは分かっています。
それでもそれを書き切りたい。
ただそれだけです。
長くなりましたが、自分語りはこの辺にしておきたいと思います。
それでは、最後の『論考』記事…始めていきたいと思います。
↓前回記事はこちら
とりあえず、前回の簡単なまとめをしておきましょうか。
『論考』ではウィトゲンシュタインの「独我論」が書かれていますが、それは通常私たちが思っている「独我論」とは微妙に異なっていました。
通常私たちが思っている「独我論」は「現象主義的独我論」と呼ばれ、自分に現れてくる現象の存在だけを認める考えです。
この考えの元では、一切の「他我」は捨象され、あらゆる事象が「私」の意識への現れだと見なされます。
一方、『論考』における「独我論」は、ウィトゲンシュタイン独自の「独我論」でした。
「私の世界」と同義である「論理空間」は、その内部も外部も語り得ないということから、半ば強制的に「独我論」の結論に至ります。
ですが、他の存在を否定するわけではありません。
器無き液体は、どこにも満たすことが出来ない。のと同様に、器たる世界無くしては液体たる自我も存在できないと考えました。
要するにウィトゲンシュタインの「独我論」は、一見正反対にも見える、「実在論」と一致した「独我論」だったのでした。
では、最終回を始めていきます。
42.存在論的神秘
六・四四 神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。
ウィトゲンシュタインは、世界があること、すなわち私たちが世界において数々の対象に出会っていることそれ自体を「神秘」と呼んでいます。
ウィトゲンシュタインからすれば、私という対象が存在すること、富士山という対象が存在すること、その他すべての対象が存在することは「必然的」であります。
これは些か受け入れがたい考えですよね。
なぜあなたではなく私という対象が存在したのか、なぜ他の山ではなく富士山という対象が存在したのか。
こう考えると、あらゆる対象が存在することは「偶然的」であるようにも思えます。
ですがウィトゲンシュタインからすればそれは、私たちが思考不可能な領域を思考してしまっているからです。
私という対象が存在しなかった世界、富士山という対象が存在しなかった世界を思考してしまっているからです。
これは私たちの生きる「論理空間」とは別の「論理空間」を思考してしまっていることになります。
ゆえに、私たちが思考可能な「論理空間」の内側に存在している限り、今ある状況以外の可能性を思考することはできません。
その意味ではすべての対象がしかじかに存在しているということはすべて「必然的」であり、彼はこれを「存在論的神秘」と呼びました。
六・四五 限界づけられた全体として世界を感じること、ここに神秘がある。
ですが、これにも疑問点が生じます。
もし富士山という対象が存在しなかったら、と考えることは現実問題として可能ですよね。
そう考えると、富士山という対象が存在しないという違いだけの「論理空間」についてなら思考できるのではと思ってしまいます。
結論から申しますと、それは確かに部分的に可能です。
そもそも私たちが生きる「論理空間」とは別の「論理空間」を思考する方法には、2種類あります。
1つは、既知のある対象が存在しなかったらと考える方法。
1つは、未知のある対象が存在したらと考える方法。
前者の「論理空間」は、思考することはできずとも示すことはできます。
なぜならその「論理空間」は、今私たちの生きる「論理空間」の部分集合に過ぎないからです。
そのため、示すことは可能です。(大は小を兼ねるとも言うように)
一方、後者の「論理空間」は、思考することも示すことも不可能です。
なぜならその「論理空間」は、今私たちの生きる「論理空間」とは重ならない部分を有するからです。
そのため、思考はもちろん示すこともできません。
こう考えると、私たちが生きる「世界」はとても「限定的」だと思わせられます。
ウィトゲンシュタインはこうした限定的な世界の限界を「感じる」ことに「神秘」があると考えました。
限界づけられた全体として世界を「感じる」ことに「存在論的神秘」があります。
すなわち「存在論的神秘」とは、他の在り方を語ることも示すこともできないというそのことにおいて感じ取られる「必然性」を指します。
43.「論理」と「倫理」の「超越論性」
六・一三 論理は、超越論的である。
「論理」が「超越論的」であるということは、頷ける内容だと思います。
今まで書いてきた通り、「論理」はそれ自体語り得ません。
世界の事実を経験する様にして「論理」を経験することはできません。
「論理」は、私たちが事実を経験することを成立させるためには絶対的に必要なものであり、その意味で「超越論的」であるのです。
すなわち「論理は」、世界の形式そのものであるがゆえに語り得ないのです。
六・四二一 倫理は、超越論的である。
一方、「倫理」が「超越論的」であるということは、疑問点が残ります。
「論理」なくしては「論理空間」が成立しないのだから、「論理」は絶対的に存在を要請されるものであり、その意味で「超越論的」です。
これは理解できるでしょう。
ですが、「倫理」がなくとも「論理空間」を張ることはできます。
であるならば、どうして「倫理」も「超越論的」と言えるのか。
それは次項で説明したいと思います。
44.永遠の相の下に「倫理」と「美」を見る
六・四二一 (倫理と美はひとつのものである。)
ところで、芸術家の仕事の他にも、世界を永遠の相の下につかまえる一つの方法があると思われる。それは、私の考えでは、思想という方法である。思想は、いわば世界の上空を飛んで行き、世界をそのあるがままにしておく、そうして、飛びながら上空から世界を眺めるのである。(『反哲学的断章』より引用)
芸術作品は永遠の相の下に見られた対象である。そしてよい生とは永遠の相の下に見られた世界である。ここに芸術と倫理の関係がある。
日常の考察の仕方は諸対象をいわばそれらの中心から見るが、永遠の相の下での考察はそれらを外側から見る。
それゆえこの考察は世界全体を背景として持っている。
あるいはそれは、時間・空間の中で対象を見るのではなく、時間・空間とともに見る、ということだろうか。
各々の対象(Ding)は論理的世界全体をいわば論理空間全体を生み出す。
永遠の相の下で見られた対象とは、論理空間とともに見られた対象に他ならない。(こんな考えがしきりに浮かんでくるのだ。)(『草稿』1916年10月7日より引用)
ここにきて『論考』以外を引用することになりました。
『論考』を読解するには『草稿』が不可欠ではありますが、『反哲学的断章』も本来であれば読んでおくべきなのでしょう。
ですが、僕は断片的にしか読んでいません…
ですので引用程度に留めておきます。
さて、話を戻しましょう。
「倫理」と「美」はひとつだという唐突の主張が出てきました。
「倫理」が「超越論的」であるということは、「美」も「超越論的」であるということになります。
これで余計に疑問が増えました。
しかしその疑問は、『反哲学的断章』『草稿』を引用してくれば少し解消されます。
ポイントは「永遠の相の下に」というところです。
「永遠の相の下に」なんて聞くと、オランダの合理論者スピノザを想起する方が大半でしょう。
というか彼の専門用語と言っても過言ではありません。
彼の考える「永遠の相の下に」は…
唯一の実体である神とその被造物たる自然は一体のものであり(「神即自然」)、その神によって定められた事物を永遠の相の下に認識することに人間の最大の幸福がある
という考えでした。
※詳しく知りたい方は『エチカ』を読んでください。
一方、ウィトゲンシュタインがここで述べる「永遠の相の下に」は、何も、神の存在に基づくものではありません。
それは以下のようなことです。
「論理空間」においては、あらゆる「対象」は不動の実体です。
たとえば、「ウィトゲンシュタイン」という「対象」を考えてみましょう。
「ウィトゲンシュタインは子供である」という命題と、「ウィトゲンシュタインは大人である」という命題には共に「ウィトゲンシュタイン」という「対象」があります。
この2つの「対象」は同一のものです。
一見、子供である「ウィトゲンシュタイン」と大人である「ウィトゲンシュタイン」は異なる「対象」のようにも思えますが、それは「子供である」「大人である」というまた別の「対象」との結びつきが異なるだけで、「ウィトゲンシュタイン」という「対象」それ自体は同じものです。
もっと極端な例でいえば、「ウィトゲンシュタインは死んだ」という命題を考えてみましょう。
死んだ場合、その「対象」であった「ウィトゲンシュタイン」は、実体ではなくなったようにも思えます。
ですが、私たちが「ウィトゲンシュタイン」という「対象」について思考可能である限り、「ウィトゲンシュタイン」という「対象」は存在し続けるのです。
これが、「論理空間」においては、「対象」は永遠に実体であり続けるということの意味です。
ウィトゲンシュタインはこれを「永遠の相」と表現しています。
「倫理」も「美」も、こうした「永遠の相の下に」理解されるべきものなのです。
「論理空間」を構成する不変の礎石として「対象」を捉える…
こうすることで「対象」は不生不滅の永遠の実体となり、永遠の相の下に捉えられた世界が開けます。
その意味で、「倫理」も「美」も「超越論的」であるのです。
45.死は人生の出来事ではない
六・四三一一 死は人生の出来事ではない。死を人は経験することがない。永遠とは、果てしなく時間が続く事ではなく、無時間のことであると理解するなら、現在のなかで生きている者は、永遠に生きている。私たちの生は、私たちの視野に境界がないのとまったく同様に、終わりがない。
六・四三一二 人間の魂が時間的に不死であること。いいかえれば、つまり死後も魂が永遠に生き続ける事。そのことは、どんなやり方でも保証されてはいない。それだけではなく特に、そういうことを想定したからといって、いつもそれで期待されていることが、実現されるわけではまったくない。私が永遠に生き続けることによって、謎が解けるのだろうか?その永遠の生は、現在の生とまったく同様に謎めいているのではないか?時間と空間の中にある生の謎を解くことは、時間と空間の外側にある。(説かれるべきなのは、自然科学の問題ではないのだから)
ウィトゲンシュタインは、人は死を経験できないと語ります。
これがどういう意味なのかは、今まで書いてきたことを鑑みれば何とか理解できそうですので、簡単に僕の理解したところを書いておきます。
そもそも、「ウィトゲンシュタイン」の死と、「彼」の死は同じことでしょうか?
「彼=ウィトゲンシュタイン」なのだから、「ウィトゲンシュタイン」が死ねば「彼」も死ぬように思えます。
ですが、本質的には「ウィトゲンシュタイン」と「彼」は異なります。
「ウィトゲンシュタイン」は「論理空間」の中にある1つの「対象」に過ぎません。
ですが「彼」は、「対象」たりえません。
眼球が視野に属さないように、主体たる「自我」は「論理空間」には属さないからです。
要するに、「ウィトゲンシュタイン」が死んだとしても、それは単に「論理空間」の中の1つの「対象」が死ぬだけですが、「彼」が死ぬと、「論理空間」そのものが消滅してしまうことになります。
したがって私たちは、自分が死ぬということについて思考できません。
思考できるのは、自分という「対象」が消えた世界であり、「私」という世界と同義であるはずの主体が消えた世界ではありません。
この意味で人は自分の死を経験できないと言えるのです。
46.世界を3段階に規定する
『論考』を最後まで読むと、ウィトゲンシュタインの世界の規定が3段階に変化していっていることが読み取れます。
最初は当然、「事実の総体」としての世界です。
「事態」の中で現実に成立していること、すなわち「事実」が集まったものが世界であるという考えです。
これが『論考』の終盤まで貫かれた彼の世界観です。
ですが、それは終盤にきて違った様相を呈します。
それは、「永遠の相の下」での世界です。
前述の通り、「対象」は不生不滅の永遠の実体です。
こうした永遠の実体の総体が世界であるとも考えられます。
これがウィトゲンシュタインの2段階目の世界観です。
そして、3段階目の世界観が最も重要です。
それは、「意志に彩られた世界」です。
この世界観こそが「幸福」につながるのですが、それは次項で説明します。
47.幸福に生きよ!
この世界の苦難を避けることができないというのに、そもそもいかにして人は幸福でありうるのか。(『草稿』1916年8月13日より引用)
この世界は苦難で溢れているのに、どうして幸福でいられようかと述べるこのメッセージから抱く印象は、どういったものでしょうか。
一見すると、このメッセージは、ペシミスティック(悲観的)な幸福論であるように思えます。
ですが、むしろこれはオプティミスティック(楽観的)な幸福論です。
なぜなら、幸福になるために必要な条件を世俗にではなく内面に求めているからです。
六・四一 世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてあるようにあり、すべては起こるように起こる。世界の中には価値は存在しない。
46で述べた通り、この世界は「意志に彩られた」世界です。
「幸福な世界」とは、「生きる意志」に満たされた世界です。
「不幸な世界」とは、「生きる意志」を奪い取る世界です。
私の人生が惨めであると感じるのも、あるいは反対に満ち足りていると感じるのも、それらはすべて世俗的なものでしかありません。
ウィトゲンシュタインからすれば、本当の「幸福/不幸」を決めるのは、「生きる意志」の有無にかかっているのです。
「幸福」とは~な条件を満たしていることだ!
~以上の水準を満たしている人は「幸福」だ!
「不幸」とは~な条件を満たしていることだ!
~以下の水準の人は「不幸」だ!
このように語ることは無意味であり、ウィトゲンシュタイン的に言えばナンセンスです。
「幸福」とは語り得ぬことなのです。
沈黙しなければならないことなのです。
だから私たちにできるのは、自らの生と言う器を、「生きる意志」で満たすこと。
それゆえ、ウィトゲンシュタインはこう語るのです。
幸福に生きよ!(『草稿』1916年7月8日より引用)
48.生きる意味とは何か
六・五二一 生の問題の解決を、人は問題の消滅によって気付く。
『論考』を読んで僕が最も感銘を受けたのはこの部分です。
誰しも一度は「生きる意味」について考えたことあるでしょう。
その答えは千差万別です。
誰かの役に立つことが生きる意味だ!
社会に貢献することが生きる意味だ!
産んでくれた両親に孝行するのが生きる意味だ!
などという聞き飽きた答えもあるでしょう。
生きている意味なんて存在しない。
私たちはただ生まれてただ死んでいくだけだ。
などというニヒリズム的な答えもあるでしょう。
あなたが選択した意味があなたの生きる意味だ。
他人があなたの生きる意味を決めるんじゃない。
などというもっともらしい答えもあるでしょう。
ですが、これらのどの答えも、多くの人を納得させる答えにはなっていません。
僕は『論考』が出す答えにこそ一番納得させられました。
「生きる意味は何か」という問いの答えは、「生きる意味は何か」という問いそのものがナンセンスであるということを知り、問題そのものが消滅することによって解決されます。
「生きる意味」は語り得ぬ沈黙の上に立っています。
「生きる意味」を強いて挙げるならば「幸福になること」それ自体なのです。
言語には限界があるため、「幸福に生きよ!」としか言えないのです。
49.意味の他者
前回書いた通り、『論考』の「独我論」には他者が存在します。
通常の「現象主義的独我論」とは異なり、他者の存在そのものを否定しません。
ですが、確かに「独我論」ではあるのです。
では『論考』の「独我論」は、何を否定しているのでしょうか。
それは他者の「論理空間」の存在です。
「現象主義的独我論」においては他者の痛みは単なる現象でしかありえず、その痛みの主は存在しないものと考えます(この意味で独我論に至る)。
一方、『論考』の「独我論」では、他者の痛みの主の存在を否定するのではなく、自分以外の「論理空間」の主の存在を否定します。
『論考』の「独我論」に存在する他者は、あくまで「私」の「論理空間」の中だけに存在する他者です。
言うなれば、その他者は「意味の他者」に過ぎません。
『論考』は、自分以外の「論理空間」(及びその主体)を否定することで、それまでの「実在論」にも「独我論」にも存在しなかった「意味の他者」という全く新しい他者の姿を浮かび上がらせました。
これこそウィトゲンシュタイン的独我論の最大の特徴です。
※すばひびで言いいますと、「素晴らしき日々」エンドのエピローグで、皆守と木村が夕焼けの河原で話している場面に収斂されますね。
50.語り得ぬものについては沈黙しなければならない
七 語り得ぬものについては、沈黙せねばならない。
この話題で『論考』の記事を締めくくりたいと思います。
ぴったり50個の小題で説明できそうです(実は最初から狙っていた)。
語り得ぬものについては沈黙しなければならない…
この言葉自体は高校倫理の教科書にも載っていますし、ウィトゲンシュタインといえばこの言葉が代表的だと思います。
ですがその意味は、表面上読み取れる意味よりはるかに深淵でした。
僕がこの言葉を高校倫理で知ったとき、従来の哲学上の問題は言語の誤った使用から生じたものに過ぎないんだから、知ったかぶりしないで黙っとけという意味だと思いました。
この解釈は確かに間違いではないでしょう。
ですが、そんなことを言うためにわざわざ『論考』を書くでしょうか。
過去の記事でも書いたと思いますが、この言葉の裏には、ただ沈黙するだけでなく、それを敬うべきであるというメッセージが隠れているように思えます。
沈黙することで、本来敬うべき語り得ぬものたちを執拗に貶めることを未然に防ごうとしているというわけです。
ウィトゲンシュタインが「語り得ぬもの」と言ったのは、「倫理」「生」「美」といった、総じて「形而上学的なもの」です。
ウィトゲンシュタインが言っているのは、語り得ぬ沈黙の上でそれを無条件に肯定する姿勢です。
この意味でウィトゲンシュタインのこの言葉は、ネガティブ(消極的)なものではなく、むしろポジティブ(積極的)なものであることが分かります。
ここまで論理的に議論を進めてきたのに、最後の最後で、語り得ぬものを無条件に神聖視しています。
そう考えると、『論考』のこの主張は宗教的とも取れます。
ここまで『論考』を読んできたのに、結局は宗教的かよ…と思われる方もたくさんいるでしょう(僕もそうでしたし)。
ですがそもそも、こんな考えに固執する必要はないのです。
なぜなら、ウィトゲンシュタインはその直前でこう語っているんですから。
六・五四 私の文章は、次のような仕掛けで説明している。私がここで書いていることを理解する人は、私の文章を通り――私の文章に乗り――私の文章を超えて上ってしまってから、最後に、私の文章がナンセンスであることに気付くのである。(いわばハシゴを上ってしまったら、そのハシゴを投げ捨てるに違いない)その人は、これらの文章を克服するに違いない。そうすれば世界を正しく見ることになる。
『論考』はハシゴに過ぎないのです。
上り切ったら、そのハシゴは投げ捨てるべきなんです。
そうしてこの考えを克服して、自分で世界を正しく見るべきなんです。
だから『論考』は、全ての人を読み手にしているわけではありません。
最後に序文のこの言葉を再び引用して締めくくりたいと思います。
この本を理解してくれる人は、ここで表現されている思想を――または似たような思想を――すでに自分で考えたことがある人だけかもしれません。――つまりこの本は、教科書ではありません。――この本を読んで理解して、面白いと思ってくれる人が一人でもいれば、この本の目的を達成されたことになるでしょう。(序文より引用)
以上で僕の『論考』に対する理解は終わりにしたいと思います。
『草稿』『反哲学的断章』も一部引用しましたが、最初に書いた通り、『反哲学的断章』は読んでいませんので、理解としては不十分でしょう。
※『草稿』は『ウィトゲンシュタイン全集1』に収録されています
ですが、それでいいと思っています(無責任ですが)。
最初に書いた通り、これが今の僕の理解なのですから。
後になって自分で振り返って、こんな風に考えてたのかと思い出せればいいのです。
どうせこんな記事なんて読んでくださる方はほとんどいないでしょうし。
僕が読んでほしいと思う人はやはり1人だけなのです。
その人に読んでほしい。
そして彼と語り合いたい。
『論考』という、いわば哲学の異端書みたいなものについて語り合える人なんて、そう簡単に見つかるものじゃありませんし。
僕はその人にこれを読んでもらい、考えを共有したい。
ただそれだけの思いで、今まで全6回に渡り、50000字ほどの説明を書き連ねてきました。
それも今回で終わりです。
あとはもう、すばひびとサクラノ詩(発売されたらサクラノ刻)の感想・考察をいつか書いて、それについてもその人と考えを共有したいという思いだけです。
いつか彼と語り合いたいです。
前述の通り、彼は彼のやりたいことがあって忙しそうなのですが…
僕のやりたい事なんてそれくらいしかもうありません。
なんと寂しいことか!
雑談が過ぎましたね…
では、終わりにしたいと思います。
もちろんブログ自体は続けていきます。
これからもエロゲの紹介はしていきますし、必要であれば自分なりの感想・考察も書いていきたいと思います。
何より、すばひびとサクラノ詩の感想・考察がまだですしね。
とりあえず『論考』に関する話題はこれで終わりです。
こんな駄文・長文を読んで下さりありがとうございました。
それでは、また逢う日まで…
(追記)
次回はついにすばひびの感想・考察を書くかもしれません。