論理哲学論考を読んで⑤(7922文字)【ウィトゲンシュタイン】【論理哲学論考】
『論考』の話題は久しぶりですね。
『論考』を読み、それを文章に落とし込む作業は、他の記事を書くよりはるかに時間のかかる作業なので、こんなにも過ぎてしまいました。
↓前回記事はこちら
では、例に倣って前回のまとめを書いておきましょう。
『論考』は
序盤の「論理空間と現実世界の定義」
中盤の「関数論的視点から見た論理学」
終盤の「独我論や世界と私の捉え方」
の3つに大分されます。
前回は、中盤の「関数論的視点から見た論理学」について書いたのでした。
『論考』の著者、ウィトゲンシュタインは論理学の大きな転換点にいました。つまり「論理学革命」の真っ只中にいたわけです。
そもそも「論理学」は前4世紀にアリストテレスによってその基本が確立されました。
それは「伝統的論理学」と呼ばれ、「主語概念」と「述語概念」の組み合わせ、及び「肯定⇔否定」と「全称⇔特称」の2つの区別、計4つの文型によって構築されます。
こうした「伝統的論理学」は19世紀末まで引き継がれることとなりましたが、そこにはいくつかの不備がありました。
「三段論法」では、「後件肯定の誤謬」「前件否定の誤謬」という陥りやすい落とし穴があったのです。
これらの不備を是正する形で新たにフレーゲによって確立されたのが「記号論理学(現代論理学)」でした。
「記号論理学(現代論理学)」では「語(word)」ではなく「文(sentence)」を基本単位とし、「命題(proposition)」を基盤とします。
すべての「命題」を、「要素命題」が「論理結合子」で結合された塊と見なし、「論理記号」を用いることで、数式的に表示します。
そうして数式的に表示された「命題」では、「要素命題」の「真理値」に応じて一義的に「命題」の「真理値」が決定されるという特徴があり、これが関数的であったため、「真理関数」と呼ばれます。
「真理関数」にも例外があります。それが「トートロジー(恒真命題)」と「矛盾命題(恒偽命題) 」でした。
この「トートロジー(恒真命題)」という概念を確立したことが「論理学革命」におけるウィトゲンシュタインの最大の功績でした。
ですが、「記号論理学(現代論理学)」は「伝統的論理学」と実際どのように違うのか、ということが次なる疑問です。
そこで「丸い四角形は存在しない」という「命題」を例に挙げて説明しました。
「伝統的論理学」を採用した場合、「丸い三角形」という「主語概念」と、「存在しない」という「述語概念」に分けることになりますが、「丸い三角形」というものは思い描くこともできないため、この「命題」は「ナンセンス」だという結論が導かれます。
これは、この「命題」が明らかに真であるということに反しますので、「伝統的論理学」では不十分です。
一方で、「記号論理学(現代論理学)」を採用すると、「丸い四角形」をさらに「丸い(Rと表記する)」と「四角い(Sと表記する)」という「述語」の組み合わせと見なすことになります。
そうして先述の「論理記号」を用いて表示すると、「(∃x)(Rx.Sx)」のように表すことができ、明らかに真であるとの結論が導かれます。
したがって「記号論理学(現代論理学)」のほうが汎用的であるという結論が導かれたのでした。
このブログでは論理学についての説明はこの程度の理解で終わりにしたいと思います。
その理由は前回の記事で書いた通り、「素晴らしき日々~不連続存在~」と「サクラノ詩-櫻の森の上を舞う-」の考察から、外れてしまうからです。
より詳しく論理学について学びたいという方は、「現代論理学(著:安井邦夫 出版:世界思想社)」がおすすめです。
では、さっそく今回の内容に入っていきましょう。
今回からは、いよいよ終盤の「独我論や世界と私の捉え方」に入っていきます。
ここが一番の醍醐味といっていいでしょう!
「素晴らしき日々~不連続存在~」「サクラノ詩-櫻の森の上を舞う-」では『論考』がテーマの主題になっていますが、それは主に、この終盤の「独我論や世界と私の捉え方」についてです。
ですので、極端に言えば、この2つのゲームのためだけに『論考』を読むのであれば、『論考』の終盤部分だけでもいいのですが、それでは理解が不十分になる恐れがあるので、前回までで4回に渡り『論考』の内容説明をしてきました。
今回からこそが本題といってもいいでしょう。
では、さっそく書き始めていきます。
36.『論考』における「独我論」と我々が思う「独我論」の差異
ここまで「独我論」が誰もに既知であるように書いてきましたが、「独我論」がおおよそどういった考えなのかはご存知でしょうか。
ものすごく簡単に言ってしまえば、「私たちの認識が主観と客観の二項対立でできているのであれば、世界の存在なんてものも確定はできないし、唯一存在が確定できるのは思考している私自身だけだよね」という考えです。
『論考』が「独我論」について述べている部分はおおよそ以下の部分です。
五・六 私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する。
五・六二 このコメントは、「独我論はどの程度まで真理なのか」という問いを解く鍵になる。 つまり、独我論が思っていることはまったく正しい。ただしそれは、語られ得ず、示されているだけである。 世界が私の世界であることは、この言語(私だけが理解する言語)の限界が私の世界の限界を意味する、ということに示されている。
五・六二一 世界と生は、ひとつである。
五・六三 私は、私の世界である。(ミクロコスモス)
これだけ読んでもまったく意味が分かりませんよね。
というか、それまで「独我論」について一切述べていなかったのに、いきなり「独我論が思っていることはまったく正しい」なんて言われても理解できません。
そのためまずは、『論考』において「独我論」がどのように定義されているのかを見ていかなければなりません。
結論から申し上げますと、『論理哲学論考を読む』の著者である野矢茂樹氏によると、『論考』の「独我論」は、通常私たちが思っている「独我論」と微妙に異なるようです。
ですのでまずは、通常私たちが思っている「独我論」が何なのかについて説明していきます。
37.「現象主義的独我論」とは何か
「独我論」と聞いて真っ先に思い出すのはデカルトではないでしょうか。
↓デカルト(1596~1650)
「我思う、故に我あり」の言葉で有名なデカルトですが、これだって「独我論」と言えば「独我論」です。
このデカルト以来の「独我論」が今現在の私たちが想像する「独我論」になっていると思います。
※デカルトについての理解度は高くありませんがご容赦ください
ですが先ほども書いた通り、デカルト以来の「独我論」とウィトゲンシュタインの「独我論」は微妙に異なるようです。
そのためデカルト以来の「独我論」を、「現象主義的独我論」と呼んで区別したいと思います。
「現象主義」と聞くとフッサールなどを想起しますが、それと同様だと思っていただいて問題ないです。
「現象主義」においては、すべての事象は「私」の意識への現れとして捉えられます。
机の上に本がある、川がある、少し蒸し暑い、といった「現れ=現象」だけを受け取り、与えられたものはただそれだけの意味しか持ちません。
当然、その過程で「独我論」に踏み込んでいくことになります。
「現象主義」では、「他人」の事象は意味を失い、「私」の事象だけが現れます。
もし「他人」の痛みが「私」に感じることが出来たのであれば、それは「私」が痛いという事であり、「私」の痛みでしかありません。
「他人の意識」「他の意識主体」といったものは、「現象主義」の世界には存在しません。「他我」が消え去り、ただ「自我」のみが存在する世界です。
まさに「独我論」そのものとなります。
更には、「現れ=現象」はすべて「私」の意識への現れなのですから、わざわざ「私の意識」と限定する必要性すらなくなります。
眼球が視野に属さないように、意識主体たる「私」は、意識の内には現れ得ないということです。
「現れ=現象」を「私」への現れと「他人」への現れとに区別する必要もなく、ただ「現れ=現象」があるだけです。
そのため「彼女は頭痛に悩まされている」といった日常的な言い方は、彼女を意識主体として見てしまっているため、「現象主義」においては不適切な言い方となります。
また「私は歯痛がする」といった言い方も、「現れ=現象」を受け取る主体としての自我それ自身は現れ得ませんので、「現象主義」においては不適切です。
このように、「現象主義」によって拒否される言語を「日常言語」と呼び、「現象主義」が採用する言語を「現象言語」と呼び、区別することもあります。
要するに「現象主義的独我論」とは、一切の「他我」を捨象し、あらゆる事象を「私」の意識への現れと見なし、かつ意識主体たる「私」は意識の内に属さないとする考え方です。
38.私の言語の限界と私の世界の限界の一致
五・六 私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する。
この一節は『論考』の中でもかなり重要な部分ですが、なぜ、「私の言語」と限定する必要があるのでしょうか。
「言語の限界は、世界の限界を意味する」でも意味は同じであると思えます。
『論理哲学論考を読む』によると、それは以下の理由からです。
今まで書いてきた通り、「言語」とは有意味な「命題」の総体です。そして有意味な「命題」の総体は「要素命題」の総体によって決定されます。さらに、「要素命題」の総体は「名」の総体によって決まります。
つまり、「言語」の総体を決定するのは「名」の総体であると言えます。
また、「名」の総体は「対象」の総体に対応し、「対象」の総体は「事態」の総体を決定し、「事態」の総体は「論理空間」を決定します。
要するに、「論理空間」は「対象」の総体によって決定されるということです。
五・五五六一 経験的実在は対象の総体によって限界づけられる。限界は再び要素命題の総体において示される。
図解すると…
論理空間>対象=名<要素命題<命題<言語
となりますでしょうか。
※この辺に関することは主に①②③の記事で書いています。
したがって、「言語の限界」と「世界の限界」は一致します。
さらに、「名」と「対象」を結び付ける意志作用の主体は「私」ですよね。
例を挙げると、「彼」という「名」と、「ウィトゲンシュタイン」という「対象」を結び付ける意志作用を行うことが出来るのは「私」という主体だけです。
だからこそ、「言語の限界」は「私の言語の限界」と言い換えられます。
以上より、「私の言語の限界」は「私の世界の限界」であると言えます。
39.存在論は語り得ない
五・六一 論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。それゆえ我々は、論理の内側にいて、「世界にはこれらは存在するが、あれは存在しない」と語ることはできない。なるほど、一見すると、「あれは存在しない」と言うことでいくつかの可能性が排除されるようにも思われる。しかし、このような可能性の排除は世界の事実ではありえない。もし事実だとすれば、論理は世界の限界を超えていなければならない。そのとき論理は世界の限界を外側からも眺めうることになる。思考しえぬことを我々は思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことを我々は語ることもできない。
この一節が意味するところは、存在論は語り得ないということです。
そもそも、「これらは存在する」と語ることはできません。
語ることが出来るのは、「対象」の配列がしかじかであるという「事態」だけです。
『論理哲学論考を読む』で挙げられていた例を用いて説明しましょう。
「ウィトゲンシュタインは哲学者である」と語ることはできますが、「ウィトゲンシュタインは存在する」と語ることはできません。
「ウィトゲンシュタインは存在する」という「命題」は、トートロジーではありませんが、偽にもなりえないからです。
「命題」が「有意味」であると言えるためには、「名」が表す「対象」が存在しなければなりません。
よって「ウィトゲンシュタインは存在する」という「命題」では、その有意味性の条件と真理性の条件が一致してしまいます。
つまり「ウィトゲンシュタインは存在する」という「命題」では、有意味であることと偽であることが同時に成立しえないということです。
したがって、真偽の両極を持ちえないため、「ウィトゲンシュタインは存在する」という「命題」は正規の「命題」とは言えません。
40.『論考』の「独我論」とは何か
ここまでで通常私たちが思っている「独我論」、すなわち「現象主義的独我論」については説明できましたが、本題は『論考』における「独我論」でした。
39で述べたことと同様の議論を経ることで、「論理空間」の限界を語ることはできないという結論が得られます。
「論理空間」の限界を語るためには、この「論理空間」に存在する数々の「対象」について「これらは存在する」と語り、さらに、この「論理空間」に存在しない数々の「対象」について「あれらは存在しない」と語らなければなりません。
しかし、39で述べた通り、それは不可能です。
よって「論理空間」は、内部も外部も共に語り得ないのです。
これにより、『論考』における「独我論」は示されます。
五・六二 この見解が、独我論はどの程度正しいのかという問いに答える鍵となる。
「この見解」というのは39で述べた「存在論は語り得ない」という議論のことです。
先述の通り、「論理空間」は外部を持ちません(というか語り得ません)。「論理空間」の外にある他の存在論については、それを語ることも示すこともできません。
「世界の限界」とは「論理空間の限界」と等しいです。
よって、「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」ことから「世界は私の世界である」という「独我論」の主張が示されます。
「現象主義的独我論」が、「他の意識主体」を意識的に捨象し、「私」の意識への現れだけであるとみなすことで「独我論」の結論に達したのに対し…
『論考』における「独我論」は、「世界」と同義の「論理空間」の内部も外部も語り得ないという理由で、半ば強制的に「独我論」の結論に至ります。
ここに両者の違いが見られると、僕は読み取りました。
器無き液体は、どこにも満たすことが出来ません。
「器=世界」であり、「液体=自我」です。
すなわち、世界無しでは自我も存在し得ないのです。
こう考えると『論考』の「独我論」は、他者の存在や世界そのものの存在を否定してはいません。
ただそれを認識できないというだけであり、それは確かに存在するのです。
こちらのほうがより一般的に受け入れやすい「独我論」ともいえるのではないでしょうか。
もちろん「世界の限界」が必ずしも「私の世界の限界」と一致するとは限りません。
100m走の世界記録が〇〇秒だったとしても、「100m走の限界」は〇〇秒になるかもしれませんが、「私の100m走の限界」は〇〇秒とは限りませんよね。
したがってあくまでも、「言語の限界」と一致するのは「私の世界の限界」です。
「私の」という所有を、「生」という単語で表現するとすると、以下のようにも言えます。
五・六二一 世界と生は、ひとつである。
「論理空間」は、操作と生(私の生)によって決定されるということです。
ウィトゲンシュタインが『論考』の中で述べている「独我論」については、次の項からもっと踏み込んで書いていきます。
41.ウィトゲンシュタインの「独我論」
今まで述べてきた通り、私の「言語」の限界が「世界」の限界です。
言うなれば、世界と言語は、ア・プリオリな関係ではありません。
ア・プリオリな関係ではない、とはどういうことでしょうか。
ここでまず、誰もが聞いた事はある有名な命題を考えてみましょう。
鶏が先か?卵が先か?という命題です。
これは永遠の哲学上の課題(ウィトゲンシュタイン的に言えばナンセンスなのでしょうが)であり、哲学に親しみのない人たちでも考えさせられる命題です。
ここで、「鶏が先だ!」ないしは「いや、卵が先だ!」とか答えたとしましょう。
こう答えた場合はいずれにせよどちらが先か決めたことになるので、これはア・プリオリな関係であると言えます。
要するにア・プリオリな関係とは、経験に先立つ先天的な性質がある関係のことです。
話を戻しますと、世界と言語は、ア・プリオリな関係ではありません。
つまり、「世界=言語」というわけです。
そして、言語はあくまでも「私」が用います。
したがって、「世界は私の世界」であるのです。
では、言語の主体である「私」はどこに位置するのでしょうか?
世界の外側でしょうか?世界の内側でしょうか?
答えはそのどちらでもありません。
主体たる「私」は世界には属しません。
眼球が視野に属さないのと同様です。
私たちは当然「私」の姿を知っていると思います。
ですが、それは鏡に映った姿であったり、写真に撮られた姿であるはずです。
そうした自己像は、ウィトゲンシュタインに言わせれば、「自我」ではなく、思考の「対象」に過ぎません。
つまり、「自我」は「対象」になれないのです。
また、ウィトゲンシュタインの「独我論」は、それ以外の「現象主義的独我論」とは決定的に異なる部分があります。
それは、「実在論」と一致しているということです。
は?実在論?正反対だろ!?…と思われることでしょう。
「実在論」の立場に立てば、自我に限らず、他我やその他あらゆるものもすべて実在することになります。
自我の実在だけを認める「独我論」とは正反対の考えだと思われます。
ですが、ウィトゲンシュタインの『論考』の「独我論」は違います。
前述の通り、「世界=私(自我)」です。
「自我」は実在するのに、それと同じはずの「世界」は存在しないなんておかしい話ですよね。
器無き液体は、どこにも満たすことが出来ない…
グラスなどの器が無ければ、飲み物はその形を留めることができません。
それと同様、器である「世界」が存在しなければ、液体である「自我」も存在できません。したがって、「自我」以外の存在も認めることになります。
これが「実在論」と一致しているということの意味するところです。
以上でウィトゲンシュタインの「独我論」は簡潔にですが説明できたのではないかなと思います。
次回からはいよいよ「死」「幸福」といった、よりすばひびと密接に関係したテーマに迫っていきます。
それが終わったら、いよいよすばひびの考察を書きたいなぁ。
ふと知り合いから言われたことなんですが、同じくすばひび好きの方との共著?で、すばひびの考察本を同人誌としてコミケとかに出すのもいいですね( ´∀` )
それでは、また逢う日まで…
(追記)
次回は未定です。
↓次回記事はこちら